第26話
今夜は満月だった。結局、浙冶はあの話の後はすぐに役所を辞去し、そのまま皆と合流していつも通り仲介に宿を取ってもらった。
ここの宿屋は一階が広い食堂となっている。夜遅くまで飲食ができるらしい。客は二階にある部屋に泊まることとなっていた。
夕食もそこそこに浙冶は二階の部屋へ戻ったが、すぐに書を持って部屋から出てきた。月明かりで外が明るい夜は、決まって外に出て書を読む。灯りの菜種油を節約するためだ。今日も誰もいない中庭に行き、石に腰をかけて読み始めた。しかし、しばらくすると、ふっと影が落ちて手元が暗くなる。月が雲に隠れてしまったかと思い、顔を上げた。
「浙冶」
樊季が目の前に立っていた。月の光が降り注ぐ中にふわりと立つ様は、白く淡い光の衣を纏う天女のよう。浙冶は思わず、「綺麗なもんだな」と呟く。そして、「何か用か?」と書に再び目を落としながら、浙冶はいつも通りそっけない態度で聞いた。
「あんた、この前、『名前は偽名』って言ってたでしょ? どういうことなの?」
唐突に訊かれ、浙冶は書をめくる手を止めた。
あの日以降も浙冶に対する樊季の態度は変わらなかった。そして、この件に関しても道中、聞こうともしなかった。てっきり忘れたのか冗談だと思ったのだろうと、浙冶は勝手に解釈していた。が、そうではなかったらしい。
「あれは冗談だ」
「それこそ嘘でしょ」
「知らないほうがいいぞ。ろくなことじゃない」
浙冶は書を再びめくりながら、樊季の顔を見ずにぞんざいな返事を投げる。
「そうかもしれないけど。最近ね、あんたがうちに来たばっかのときのこと、夢にみるのよね。そういうの、気になるじゃない?」
樊季と初めて会ったとき、浙冶は襤褸同然の服をまとった上、傷だらけで血が滲む腕を舐めていた。そのせいか、樊季は怖がって下女の背中に隠れっぱなしだった。ひとこと、「獣のようね」と呟いていたのを聞いただけだ。
しかし、次の日からは仲良くするのが使命とばかりに浙冶に話しかけてきた。それも根気よく何度も。
「あなたも葉の家族の一員なのよ」
引き取られて間もない頃、浙冶は樊季からにそう言われた覚えがある。本人が覚えているかどうかは知らないが。
「別にあんたに興味はこれっぽちもないけど。あんたも葉の人間なんだから、多少はあんたについて知ってたほうがいいかなーと思って」
照れ隠しで目を合わせず、小さな声でもじもじと樊季は言う。多分何か、心境の変化があったのだろう。しかし。
「興味がないなら、俺のことは知らなくても別に困らないだろ」
「困るとか困らないとかそういうことじゃなくて。家族のことは知っておくべきでしょ」
浙冶はひとつ、長い息を吐きながら書を閉じた。
「知るったってな、いずれ尹家に嫁ぐお前には必要のないことだ」
「まだ嫁いでないわよ。それに」
「第一、俺は家族なんかじゃない」
樊季の言葉にかぶせるように浙冶が言を放つ。
「そこ、訂正しとく。便宜上、お前の父親を『親父』呼ばわりさせてもらってるがな。本来はただの雇用主と雇われ人だ」
「でも、父さまは、あんたを『新しい家族だ』って言ったわ」
樊季が食い下がるように言葉を吐く。それに浙冶は答えなかった。代わりに唐突に質問をする。
「お前には夢があるんだろ?」
すると、当然と言わんばかりに少し胸を逸らしながら樊季は答えた。
「私は嬰舜さまと早く結婚して嬰舜さまの子供を産んで、嬰舜さまを支えるのが夢だわ」
やはり、というか、聞くまでもない答えが返ってきた。
「そういうあんたはどうなのよ?」
浙冶はふうっと息を吐きながら、面倒そうにぼそぼそと返した。
「人から奪わなくてもちゃんと飯が食えること」
樊季の動きが止まる。
「雨に濡れずに寝床できちんと寝られて、まともな仕事で稼げて、殴られたり蹴られたりしなければ、俺は、それで充分」
「それ、当たり前のことじゃあ、ないの?」
若干引いている樊季に対して、またもや浙冶は苦笑する。浙冶にとっては玄亥に引き取られるまでは、それは当たり前のことではなかったのだ。
「他にはないの?」
「ない。これ以上何かを望める立場じゃないからな」
幼いころは欲しいもの、やりたいことがたくさんあった。しかしあの日を境に、それらのことはすべて望めなくなった。それどころか、衣食住の保証がなく生きることさえ覚束なくなってしまったのだ。
「立場って?」
「俺は、使えなくなったらすぐに追い出される、住み込みの下僕みたいなもんだ」
樊季は目を見開き、「まさか」と思わず声に出した。
「まさかも何も。俺は期限付きで雇われてるだけなんだよ。いつまでが期限かは知らないがな。今回の塩の件だって、受けなきゃクビだし、失敗しても即クビ」
浙冶は他人事のように言う。どんなにやりたくなくても玄亥が命令したことは絶対だった。やらなければ長葉明にはいられない。
樊季が驚くのも無理はなかった。玄亥は普段から、『失敗をして経験を積ませる』と口癖のように雇用人たちに言っていた。それくらい、雇用人たちを大事にしている。しかし、浙冶に対してだけはそうではないのだ。そうではないと初めて知った。
「でもきっと、父さまはあんたに早く一人前になって欲しいから厳しくしてるだけよ」
樊季のよく分からない慰めに、浙冶はふっと笑って首を横に振った。
「とにかくな、俺はただの一雇用人なわけで、家族じゃない。だから、お前ともこれ以上、関わりを持つつもりはない」
まさか、ともう一度樊季は呟いた。それに対して、浙冶はさらに声の調子を落とした。
「で、話を戻すけどな。お前が俺に関わると、お前の大事な夢が壊れるかもしれないって聞いたら、どうする?」
「えっ?」
「さすがにそんなヤツのことを『家族だ』なんて、のんきなこと、言えないだろ?」
「どういうことなの、それ?」
前のめりにならざるを得ない問いに、浙冶はさらに抑えた声で返した。
「まあ、ぶちまけて言っちまうと、俺は本名も家名も名乗れない。そういうことをやらかした家の出なんだ。意味は大体分かるだろ? それで察しろよ」
その意味は、樊季でもすぐに分かった。ひとつしかない。しかし、それが推測通りなら、浙冶がここにいるのはありえない。いや、ここにいることがばれたなら大変なことになる。
「それは……私は……」
反応に困っている樊季を見て、浙冶は再び明るい声に転じて会話を繋げる。
「心配すんな。お前の夢は絶対邪魔しないし、今度の旅でも、何があってもお前だけは葉の家に無事に帰してやるから。お前の未来の旦那みたくカッコよくは守ってやれないけどな。どんなに無様でも、下僕は下僕なりに守ってやるよ」
「あんたは下僕なんかじゃ」
「それは俺への単なる同情」
浙冶は声の明るさごと、切り捨てるように言い放った。
「別に家族だと思ってくれなくても俺は全然困らないし、悲しいとも思わない。だからさ、お前も一時の感情なんかで判断を誤るなよ」
「ねえ、でも」
「いいからこれ以上何も言うな、聞くな。俺は葉の家にもお前にも、これ以上迷惑をかけたくない」
浙冶は立ち上がり、もう寝るぞと言い残してその場をあとにした。樊季が引き止める声がしたが、無視をして部屋へ戻ろうとする。
戻る途中の廊下で立ち止まると食堂から、まだ呑み食いしている宿泊客たちの明るい声が聞こえてきた。その声を遠くに聞きながら、浙冶は今しがた樊季に訊かれたことを思い出した。
(夢か)
本当はあった。自由の身であったならやりたいことが。
「道義に外れた行為で儲けようとするな。それさえ心に留めておけば商人としての誇りがもてる」
昔、父親が言った言葉だ。
商人はこの国では低くみられがちな存在であるが、必要な物を必要な人の元へ届けることで皆を幸せにできるものだと。売りたい者、買いたい者、それを仲介する者、すべてが満足するのがいい商人だと。そして、利はひとり占めするのではなく人を助けることに使えとも。そう父は言っていた。
いつかは父親と同じような仕事をしてみたかった。それが夢だった。しかし、それはもう望めない。望めなくしたのは。
「父さん、俺、父さんに言われたことは守ってるつもりだけど、父さんは自分が言ったことを守ってた?」
父親への憧れと疑念が今でも心の中で葛藤している。
今の自分にできることは、せめて他人の幸せを邪魔せずに見守ることだけだ。自分のせいで他人を巻き込み、その幸福をぶち壊すまねはしたくない。しかしそれなら、自分は長葉明にはいないことが、誰とも関わらないことが最善だという事実に直面する。これからは多分、そのことを考えなければいけないだろう。
答えの出ない堂々巡りの中にいると浙冶は思った。頭を振って思考を止める。そして大きく息をつくと、食堂の喧噪を後にした。
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