第24話

 国境沿いに位置する北の防衛所。ここには国を夷狄から守るため、五千人以上の兵士が常時睨みを利かせている。防衛所は、構造自体は他の城市とあまり変わらない。城壁で囲われた防衛所という城市の中に、兵士たちの寝所や食糧庫や店、それに官署があった。


 普通の城市と違うのは、敵からの城攻撃に備えて、城門の外にもう一つ城門を重ねる甕城が発達していることだ。城外では、兵士たちが食料確保のために自ら畑を耕したり、調練をしたりしている様子が見られた。


 その調練の場が突然、騒がしくなった。一台の馬車が突っ込んできたのだ。

兵士たちは馬車を取り囲み、一斉に槍を向けた。馬車の中からは羞月閉花の姿というべきひとりの少女がゆっくりと降りてきた。尹家の簪を両手で胸に抱くように持っているが、その手が震えている。


 すると今度は、御者がひらりと身を翻して御者台から飛び降りた。向けられた槍にも怯むことなく少女に走って近づく。

「大丈夫だ。いきなり殺されたり何かされることはない」

 浙冶が樊季の肩に手を置いてそっと耳打ちをすると、樊季はぎこちなく頷いた。そして、顔を上げると、簪を前に差し出しながら、ゆっくり且つはっきりとした声を張り上げた。


「私は長葉明の葉樊季と申します。涛指揮同知様にお取り次ぎ願います」

 その言葉に兵たちがざわつきだした。こんな北の果ての調練の場に、美しい少女が現れたのだ。しかも、涛同知に会いたいという。普通ではない。

 浙冶は後方に控えてこの様子を見守っていた。が、視線は隈なく動かしている。万が一、樊季に危害が及びそうになったら自ら盾になるつもりだった。


――倉を目指さずに、兵が調練しているところに突っ込む。ちょっと危険を伴うかもしれないが、尹家の簪を見せて事を治めて欲しい――


 浙冶が樊季に頭を下げながら頼んだことだった。しかし、涛同知と誼を通じたいというのは呂苞と玄亥の命を受けた浙冶の思惑なのだ。樊季が危険を冒すことでは決してない。ただし、浙冶としては危険はないものと踏んでいた。相手の出方が突飛であれば、まずは様子を見ようとするはずだ。統制の取れている軍ならば奇襲にさえも冷静に対処するという。この防衛所は統制力が取れていることで評判だった。


 しかし、断っても構わないとも浙冶は繰り返し言った。樊季は少し迷う素振りを見せたが、結局は引き受けたのだ。


 兵がざわつくだけで一向に変化が見えないことに浙冶は焦りを感じた。簪の効き目がない。もしや樊季を危険に晒しただけだったかと後悔しかけた。そのときだった。


「涛指揮同知の妹御か?」

 と、兵士たちの中から声が聞こえた。すると、兵士たちの間から「そういえば似ているな」、「本人か?」と次々に言葉が発せられた。浙冶が「樊季」と声をかけると、樊季はもう一度声を上げた。


「葉樊季がお頼み申し上げます。涛指揮同知様にお目通りを――」

するとようやく、「ここで待て」と声がかかった。ひとりの兵が馬に乗って城の中へと駆けていくのが見える。


 浙冶は少し安堵した。樊季が涛同知の妹に似ていると認識されたなら、別の意味での手出しは多分、されないはずだ。つまり、辺境で家族や恋人と離れた女っ気のない兵士たちの中に、突然見目麗しい少女が現れたら、ということだ。


 しばらくすると、伝令が涛同知への目通りを許すとの返答を携えてきた。馬車の中を取り調べられたあと再び乗り、樊季は浙冶と共に城門を潜り抜けた。

 そのまま進み、馬車を停めるように指示をされると、そこからは先導の兵についていくだけだった。練兵場に張られた幕営のひとつに案内され中に入る。そこには、立派な体躯と並々ならぬ覇気を持つ将軍然とした若者がいた。涛指揮同知だ。

 樊季はすぐに頭を下げ、挨拶をした。


「この度は、お目にかかる機会をいただきまして至極光栄に存じます。まだ、突然の訪いという無礼、お許しくださいませ。私は昌令府の商家、葉玄亥の娘の葉樊季と申します。おそれながら、涛同知様とは誼を結びたく。私、いずれは尹家の嬰舜さまの元へ嫁ぐことになっておりまして。卑賤の身ながら、受け入れてくださった尹家のお役に立ちたく、武門の名家たる涛家の方々にご挨拶申し上げたい所存です」


(浙冶、どうしよう! 言葉遣いが変になっちゃったわ!)

(気にするな。なんとなくで伝わればいいんだから、なんとなくで!)


 樊季は後方の浙冶に失敗したかもと小声で訴えたが、落ち着けとばかりに叱咤激励された。


 本当は、してはいけないことだった。尹家にまだ嫁いでもいない、たかが一商人の娘。その娘が、武門の名家に一人で会いに行くなどとは無礼千万である。誼を結ぶためなら、最初は尹家の身内が来るのが筋である。涛家にも尹家にも無礼な行為。しかし事前情報から、涛同知の性格ならそこは気にしないだろうという自信が浙冶にはあった。


「ほう……」

 涛同知の感触の良さは思った以上だった。なにか懐かしいものを見るかのように、そして感心するかのように目を細めてゆっくりと頷く。

「樊季殿といったか? 我が妹に生き写しであるな」

 後ろで控えていた浙冶は、「そんなにもか?」と内心驚いた。似ているとは予想していたが、そこまで似ているとは思ってもみなかった。


「もったいのうございます。私ごとき容貌が涛家の姫君様の御尊顔に近しいだなんて」


(樊季、そこまで遜ることないんだぞ……あと、やっぱお前、言葉遣いがおかしいわ)


 樊季の言葉は敬語を並べているだけである。緊張のあまり、心がこもってない。いつものとおり、「私が、皇帝陛下に見初められるくらい美人だという涛同知の妹さんと顔がそっくりだなんて嬉しいです」と言ったほうがはるかに相手に伝わり易い。だが、それも涛同知は気にしていないようだ。


 浙冶は後ろから樊季をつついて急かした。璃鈴たちはここに来る前に何とか説得して、五里ほど手前で待たせてある。あまり長引かせると心配させるだけでなく、何か行動を起こすかもしれない。樊季もそれを思い出し、慌てて本題に移る。


「ところで、本日は、商家として米五石をお持ちいたしました。僅かでございますがお納めくださいますよう。さらに、康令府の知府、張呂苞様より酒三十石をお預かりしております」

「康令府の張知府? 面識はないが……」

「涛同知様とご面識を持ちたいとの意向でございます」


 涛同知は、「なるほど」と頷き、上役の奏指揮使を差し置いてわざわざ自分に宛てたその『意向』を理解した。


「張知府に我らへ心遣いの品、痛み入ると伝えてくれ。今後、何か力になれることがあれば善処するとも」

 袖の下の威力ってすげーな、と浙冶は妙な感心をした。そういう浙冶も関所の下っ端役人に渡したが、その額も目的も桁が違う。こうも人を動かす力があるとは金の力は侮れないと複雑な気分になった。


「もちろん、樊季殿。尹家との親しき付き合いを涛家は望む。そなたが嫁いでからの話になるが」

「感謝いたします、涛同知様」

 あっけないほど簡単に、目的が果たせた。正直、呂苞との約束のほうは果たせるとは思っていなかった。が、これで呂苞も康令府の民も救われるだろう、呂苞が中央に戻れば。


 尹家との誼は涛家にしてみれば通じても損はないはずだから当然の結果である。さらに言えば、樊季が涛同知に気に入られたのなら、葉家としても何らかの恩恵に預かれるのではないか、まさにこのことを玄亥は狙っていたのではないかと浙冶は考えを飛躍させた。


「あの……涛同知様?」

 樊季の躊躇うような声を聞いて浙冶は我に返った。

「本当に晶怜によく似ている……」

 涛同知はぼうっと酔ったような表情で樊季を見ていた。そのままその頬に手を伸ばそうとする。思わず、樊季は固まった。が、浙冶が前に進み出て涛同知の手を掴んだ。


「無礼を働き、大変申し訳ありません。ですが、これ以上はおやめください。こいつは尹家の嫁となる身ですから」


 涛同知はその言葉で夢から覚めたようだった。すまぬ、と短い謝罪の言葉を口にし、倉の場所を伝えると、急用を思い出したと言って幕営から出て行った。

 樊季は大きく息をついた。安堵の息である。


「言われたとおりにやったわよ。どう? 見直した?」

「ああ、ここまで上手くいくとはな。予想以上だ」

 お前のおかげだ、と最後呟くように言った言葉に樊季は目を丸くした。

「あんたが褒めてくれるなんて、大雪でも降るんじゃないかしら」

「じゃあ、その大雪が降る前に璃鈴たちに荷を持ってきてもらうぞ。もうだいぶ待たせたしな」


 樊季は思い出したように、そうだったわねと、ひとりで勝手に慌て始めた。そして。

「ほら、早く行くわよ!」

 幕営の外に出ると浙冶の手を掴んで走りだした。

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