第22話
「なんで言わなかったのよ」
馬車の中で揺られながら、樊季が不機嫌そうに言った。
「言ったって仕方ないだろうが。お前に言うと計画の邪魔になるし」
結局、すべては円満に片付いた。そのあと、疲れが溜まっていただけだったのか、丸一日眠ったらすっかり回復した。浙冶の口の悪さも復活した。もう一日大事を取って休めと璃鈴に言われたが、熱も下がったし日程的にも遅れているということで一時前に出発したところだ。
橋は落としてしまった。が、実をいえば、そのこと自体はそんなに重要ではない。
呂苞にとって問題なのは橋がないことではなく、巡按が来るこの時期に急に橋がなくなってしまったこと。それに対する言い訳が必要なだけだった。しかし、渡る手段さえ確保できれば、何事もなかったかのように振る舞うことができる。
つまり、代わりに河を渡る舟を用意しておけば事足りる。南方へ商用に行くための舟はたくさんあるという。安定感を気にするならそれらの舟を並べて鎖で繋いでしまえばいい。舟橋など昔からなじみのある橋の一種で珍しくなどない。
浙冶としては橋を落とすことによって冷静さを欠いた呂苞をおびき寄せるのが狙いだった。知府に会いさえすれば、中央への帰還を餌にして説得できる自信があった。穴だらけの策でも上手くいくと踏んだのは、欲と無知にまみれて先の見通せない呂苞だからこそである。部下に助言をされないかは内心冷や冷やしたが、運よくというか必然というか、それはなかった。
そして、呂苞との取引はあっけないくらい簡単だった。呂苞は樊季を見ただけで大貴族の総領の許婚というのを信用した。簪を見せなくとも、その美貌だけでその地位に相応しいと判断したようだ。終始、樊季を褒めちぎった上、浙冶の計画に乗るとあっさり言った。
しかし浙冶は、「俺の計画はあいつの顔で決まったのか」と呟き、複雑な表情をした。とはいえ、呂苞と約束した米と酒は、今朝がた指定された場所へ行くときちんと用意されていた。
約束の場所へ行ったら捕まった――という可能性も警戒をしていたが、その必要はなかったようだ。荷物が増えた分、浙冶が依頼したとおりに人員を増やしてくれた。期待が大きいのか、頼んでいない品もいくつかつけてくれた気がする。
「計画の話をしてるんじゃないわよ。体調が悪かったって、どうして言ってくれなかったの?」
樊季には知らせるなと璃鈴に頼んだおかげで、樊季は今朝まで浙冶が所用で城市を飛び回っていると思っていた。まさか、ずっと部屋で伏せっているとは露ほども思わずに。
「私に隠す必要ないじゃない。調子が悪いならちゃんと教えなさいよね」
「お前に言えば体調が良くなるってわけじゃないだろ」
「そりゃそうよ。お医者じゃないからもちろん治せないわよ。けど、看病くらいはするって言ってるのよ」
浙冶は答えに窮した。樊季からそんなことを言われるとは思ってもみなかった。嫌味や罵詈雑言にならいくらでも返り討ちにする自信がある。が、今回は返す言葉が見つからない。結局。
「言う必要なんてないだろ。そんなに何度も倒れてたまるかよ」
いつもの強気な発言しか出てこなかった。樊季は「もう!」と怒ったようにそっぽを向き、そのまま黙り込んでしまった。
そのまましばらく沈黙のときが流れた。が、先に口を開いたのは樊季だった。
「言っておくけど、私は謝らないわよ。やっぱり何度考えても間違ったことをしたとは思わないもの。あんただって、昨日の夜はご飯食べられなくてひもじい思いをしたでしょ。土ばっかりいじってて」
いつものようにツンと澄まして言う。昨夜、浙冶は手持無沙汰であっちこっちの土をいじっていた。そのことを皮肉っている。
「だいたい、お米を納められなかったくらいで、斬……罰せられるなんて、おかしいもの。お役人がやるはずのことを代わりにしたんだから、お咎めがあるはずないじゃない。あんたは大げさすぎるのよ」
樊季は半ば挑むような態度で浙冶を軽く睨んだ。それに対し浙冶は淡々と言葉を吐く。
「まあ、お前がやったんだったら、
樊季が勝ち誇ったように続ける。
「でしょう? だから、わたしは」
「だが、米を渡したがためにあの村が襲われたら後悔してたかもな」
樊季は目を大きく見開いた。
「な、なんでよ。お米をあげたら襲われるってどうゆうことよ!」
浙冶がおもむろに地図を広げた。康令府の地図である。
「ここがさっきまでいた康の城市な。まあ、これは見れば分かると思うが。でもって、お前が米をやった村はこの辺り。これは見ても分かんないだろうが」
そう言って浙冶は筆を取り出し、城市の周りに二十以上の点を打っていった。樊季は黙ってそれを見つめている。
「これらの点はそこそこ大きい村。もっと小さな村はあり過ぎて書けないから省略。で、今年不作だっていう地域はこの範囲な」
続けて大きな丸で囲む。書いた点がすべて入った。
「地図じゃこんなふうに村の位置は載ってないから、ピンとこないだろうがな。今年、作物が不作で食糧が足りない村は、これだけある」
「だからなによ。それがなんの関係があるのよ」
樊季の不満顔に対し、浙冶はいつもの喧嘩口調ではなく静かにゆっくりと説明する。
「村と村との間はそんなに離れてないだろ?」
「見れば分かるわよ」
「この村だけに米をやったんだよな、お前。じゃあ、周りの村の分はどうしたんだ?」
「周りの……村?」
樊季は再び地図に目を落とした。他の村の人間とは会っていないから存在自体に気づきもしなかった。だが、米をやった村の様子を思えば、おのずと他の村の状況についても答えが出る。
「他の村にも配れば良かったかしら……」
「お前、計算してもの言ってんのか? たった五石で足りるわけないだろ」
「配れるだけ配れば良かったって言ってるのよ」
「そうか。だがな。お前が米を村にやった。それを知った他の村は羨ましいと思った、だけで済めばまだいい。それを奪おうって輩だって当然出てくるわけだ」
樊季は息を呑んだ。ここで初めて自分の行為の浅はかさに思い至る。
「助けることが悪いって言ってるんじゃない。お前が言ったように親父たちも慈善活動はしているからな。ただ、今の俺たちではやれることに限界がある。それが、やらないよりやったほうがいいことなのか、それとも別の方法を考えなきゃいけないのか、あるいは手を出さないほうがいいのか。それを見極めてから行動しないと、取り返しのつかないことになってからじゃ遅いだろ」
浙冶にとっては食べ物のないひもじさは経験済だ。食糧の奪い合いも何度も目の当たりにしてきた。そのうえで件の村に差しかかる数日前、他の村の状況を聞かされたのだ。気付かないほうがおかしい。しかし、樊季ではこのことは分からない。
(こいつは考えなしに感情で突っ走るとこがあるけど)
妬みや僻みといった感情、人のものを奪うといった発想がない。先が読めなかったのは無理もないことかもしれない。それが浙冶には少し羨ましい。
「だったら……先に教えてくれれば良かったじゃない。それなら私も勝手なことはしなかったわよ」
樊季が恨みがましく呟く。浙冶がため息をつきながら面倒そうに言葉を返した。
「もしそれを話したら、お前、俺に相談なしで簪を売ってただろ。他の村の分の食糧を買うために」
今まさに考えていたことを指摘され、樊季は怯んだ。
「それの何がいけないの? 嬰舜さまだって、そんな事情なら酌んでくれるはずよ」
「建前上はな。だけど、お前、絶対、俺に相談せずに黙ってやるだろ?」
樊季は、当然、といった態度で胸を張りながら言う。
「あんた、信用ないからね。相談したら協力してくれるとでも?」
「やめさせるに決まってんだろ」
「なんでよ。私がもらったものなのに、あんたが反対する権利なんてないじゃない」
浙冶は心底疲れたような顔をした。一応、病み上がりだ。それでも懇々と説明をする。
「じゃあ、お前が簪を売って米を買って村に配るとする。その後どうなると思う?」
よそから来た商人の娘が、大貴族尹家の簪を売るというだけでもあっという間に噂が広まる。そのうえ米を配る、なんて救済活動をしたらもっと目立つ。
そしてそれは、呂苞の、康令府の役人の恨みを買う。飢饉が起こった地域への食糧供給は、本来、府として行うべき措置である。
折しも巡按がやってこようかというこの時期。村の救済が進んでいないと訴えられるより、一商人が勝手なことをして役人たちが面目を潰されるほうが恨みが深い。
「言っておくが、そこで、嬰舜の坊ちゃんや尹家に助けてもらえると思うなよ。その簪は、『尹家ゆかりの者』だと匂わせて利用することはできる。だが、尹家にも事情ってもんがある。実際にお前が面倒事を呼びこんだら」
ことによっては長葉明ごと見捨てられるからな、と最後まで言うのはさすがにやめた。
もちろん、尹家が助けてくれる可能性はある。そうであれば、康令府を敵に回そうがなにも問題ない。
しかし、そうでなかった場合。長葉明が、玄亥が、店の者たちが、康令府の役人たちから報復を受けたとして、豪商とはいえ平民にすぎない玄亥がどれだけ抵抗できるのか。浙冶にはまったく見当がつかない。だから、危険を冒すことはできなかった。
樊季もそこでようやく気づいたらしい。さっきまでの威勢の良さは影を潜めている。
さすがに、「嬰舜さまとは相思相愛だからきっと助けてくださるわ!」とも言わなかった。
浙冶は地図と筆をしまいながら、一応、取り成すかように言葉を付け加えた。
「まあ、俺の考え過ぎなだけかもしれないがな。用心するに越したことはないだろ」
浙冶も自分に非があることは分かっている。ここまでの考えを事前にすべて説明していたなら、あるいは、樊季も納得して勝手な真似は控えていたかもしれない。
が、自分に信用がないことも知っている。樊季が冷静でなかったあの状況では、『勝手な思い込み』だと断じられ、聞く耳をもたれなかった可能性のほうが高い。
(救済策、ひとつだけあるにはあったけどな)
ここの城市とその周辺には玄亥の商売上での買い付け先がいくつかある。浙冶はあらかじめ、康令のどこにその取引先があるかを調べ、記憶していた。牛蒡を仕入れてみようかと言ったのは、玄亥が仕入れていないことを知っていたからだ。そして、買い付け先には米ではないが食料となる芋や野菜を生産しているところもある。彼らに玄亥との次の買い上げ額の値上げを約束して食料を村民に分けてくれるよう頼むのだ。
余所者が救済するのは弊害があるが、地元の者がするならば『府が支援した』と知府たちは後付けで巡按にも言い繕うことが可能だから問題ない。
また、玄亥は米がなくなったからといって浙冶を助けてはくれないだろうが、勝手に浙冶が買い付けの契約をしたからといってそれを反故にしたりはしないはずだ。浙冶が長葉明の人間である限り、そんなことをすれば商売上の信用がなくなる。玄亥の商人としての信用をと普段浙冶は気にしているが、玄亥が充分に対処可能なこの場合は逆手をとる。
いずれ城市には、南からの米を仕入れた商人たちが米を売り出して食糧不足が解消する。とりあえずはそれまでの繋ぎでいい。
米はやれないと樊季に怒鳴ったあの夜、浙冶は寝ながら村人を救う策を考えていたのだ。村人たちの今もこれからのことも。しかし、樊季に話す前に疲れて寝てしまった。
呂苞には、該当地域に当たる村々への一定期間の税の免除と食糧支給も要請した。これですべて上手くいくはずだ、呂苞が忘れてさえいなければ。
横になろうとすると、樊季が驚いて寄って来た。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」
額に当てようとする手を、浙冶は掴んでそっと押し返す。
「大丈夫だ。今日も朝早かったし忙しかったからな。少し疲れただけだ」
「じゃあ、膝枕する? 少しは楽になるわよ」
浙冶は苦笑しながら首を横に振った。
「そういうのは嬰舜のヤツだけにやってやれよ」
着いたら起こせよ、と尊大な言い方で言葉を投げ、浙冶は腕を枕に横になった。樊季はガサガサと音を立てながら何かを探しているらしい。やかましい、とは思ったものの何も言わずに放っておいた。
しばらくして音が止むと、樊季がまたこちらへ寄って来る気配がした。そっと掛け布を被せてくる。
「ごめんね、浙冶」
聞き取れるかどうかの小さな声。浙冶は答えずにそのまま眠りについた。
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