第20話
辺りが完全に闇に包まれている真夜中。今夜の空は雲が多く浮かんでいる上、運よく
「そろそろだな。よし、頼むぞ」
浙冶と高殊たちは闇に眼を慣らして、壺を運びながらそろそろと近づいた。壺の中身は今日の昼間、中心城市に入って買っておいた油である。それを城市に一番近い橋に万遍なく撒いていく。
橋に火をつけた。火がある程度、橋に燃え移ったことを確認すると足早に立ち去り、近くの茂みに身を隠した。木製の橋は、夜空に向かって炎を巻き上げながら勢いよく燃える。
「おー、よく燃えてるな」
璃鈴には何をするつもりか簡単に説明をして、樊季には上手くごまかしてくれるように頼んでおいた。浙冶たちは城門が閉まる直前に城市を出たが、ふたりは城市の中にいる。
「これで出てくりゃいいんだが」
延令府の瑯知府は平民の前に出てみんなに話しかけるほど気さくだという。しかし、通常、官署の内にいて仕事をする役人はなかなか庶民とは接触する機会がない。第一、そんなに暇ではない。浙冶は楊同知を「お高くとまっている」と言ったが、それが普通である。
それでも、役人たちは飢饉や災害といった民の困窮時には必ず姿を現して様子を見、言葉をかけ、救助活動を率先してやるものなのだ。
しかし、ここの康令府の知府は人々の前に出てこない。まったく出てくる気配がない。民がどんなに困っていようと現場の視察に来ないし、訴えを聴くそぶりも見せない。それを引っ張り出すのである。
城市の中で騒ぎを起こすとか知府の家に押し入るとか、もっと直接的なことを最初に考えたが、すぐに除外した。慣れない場所で事を起こすなら前もって調査をすることが大事だが、今回は余裕がない。また、城市で面倒事を起こしても、知府が出てこないどころか、罪もない人々に損害を与えるだけになる可能性が高い。だから。
「中央から
巡按は中央からの査察の役人である。地方役人たちが真っ当に仕事をしているか、民の生活守り、上手く治めているかを調査しに派遣されてくる。当然結果は上へ、そして最終的には皇帝へ報告される。
その中央役人が来ると分かっているのに、河を渡る唯一の手段である橋を落とす。中央の不審を煽るどころか、皇帝に対して反逆の意があると受け取られかねない。実際、かつてこの地方では貴族による叛乱が起こり、それがいまだに人々の記憶に残っている。
だから、知府からすれば橋がなくなることは降格または更迭、下手したら首が胴から離れる重大事案件。いくらやる気が無いと言っても、さすがに部下だけに任せっきりにはしないはずだ。犯人探しの指揮を直々にとるだろう。
普通に押しかけても知府は会ってくれない。だが、橋を落とした犯人として捕まれば、知府とは必ず会える。裁きを下すのは知府だからだ。しかし、問題はここからだった。
「城壁の兵がすぐに気づいても、やつらが現場に来るのは早くても明日の朝かな」
浙冶は鷹揚に構えた。ちなみに、玄亥に文を送って救援を頼むという樊季の提案は即、却下した。もしくは、ここ、康の城市にある長葉明の店に頼むという案も。いずれにしろ無駄だからだ。絶対に助けてはくれない。これは浙冶が責任を持つ仕事だからである。
(俺が切り捨てられるだけで済めばいいけどな)
失敗したときの自分の処遇までは実は織り込み済みだ。が、それ以上に店に被害があるとさすがに申し訳が立たない。
今夜もかなり冷えるが仕方なかった。野宿である。しかも、橋を燃やした今、城市外は警戒されているはずなのでうかつに火を起こせない。高殊たちの服はそれなりの防寒の対策がとられていたが、浙冶は節約しすぎたツケがまわってきた。
「浙冶さん、大丈夫ですか?」
浙冶が寒さに震えて両腕をさする音が聞こえたのだろう、高殊が心配をして声をかけてくれた。
「あ、ああ、大丈夫だ」
「上着、かけます?」
「いや、いいよ。あんたこそ風邪をひかないように、しっかり着込んどいてくれ」
「じゃあ、オレが温めてあげますよ♪」
「うわっ! よ、よせよ! 俺、そんな趣味ないからっ!」
ふざけてはいるが、これでも浙冶を気にかけてくれているのだ。昨夜、樊季の目を盗んでこっそり焼餅を持ってきてくれたのも高殊だ。浙冶は頑として受け取らず、そのまま不貞寝してしまったが。
高殊がふざけて浙冶に抱きついたとき。
突如、門が開く音がし、馬の鳴き声と人の声が聞こえてきた、それが橋を目がけて走っていく。三、四人ほどのようだ。しばらく様子を伺っていると、内、小太りの中年男がいきなり馬鹿でかい声で叫び始めた。
「橋がっ! 橋がっ!! 燃えておるっ!!!」
「呂苞殿、落ち着いて。ああ、確かに橋は燃えておりますな」
「火の勢いがいいですねぇ。芋を持って来れば良かったかな」
「あ、崩れた。これはもう、いくら水をかけても無駄でしょ」
無情な会話が繰り広げられる中、炎の照り返しで見える、叫び声を上げている冴えない男は、もしや。
「ええっ?! まさかそんな?! ウソだろっ?!」
予想の斜め上すぎて信じられない。城市の外で夜中に何か起きても、普通すぐには城門を開けないものである。が、城門を開けた張本人はどうやら張呂苞、その人であるらしい。
(これってまずは敵軍の襲撃だと考えて、城門は絶対開けない案件だろ?! そもそも、夜中に開けること自体が罰則もんじゃないのか?!)
正直、浙冶もここまで呂苞がバカだとは思ってもみなかった。中央の役人登用試験が、難しい割には実践的な内容にあまり触れられていないらしいという噂は、多分、本当なのだろう。
そして、一緒についてきた部下たちに関していえば、襲撃ではないことを見越した上での行動らしいと察した。
(あ、こいつらはバカ上司なんかより分かってるな。助け舟出さなきゃいいけど)
知府と思われる冴えない男以外はこちらを向いていないので顔は見えないが、明らかに周りは皆一様に冷めた口調で話している。呂苞を止めなかったのは忠誠心が低いということなのか。呂苞は失脚してくれたほうがましな上司なのかもしれない。
浙冶は最初、あまりの展開に驚きで呆然としていた。が、すぐに我に返って状況を把握した。行動を開始するのは今だ。これは予想以上の好機である。
次第に燃え尽きていく炎の光で知府の位置を確認し、浙冶はそっと背後に回った。その口を布で押え、背中に何かを突きつけた。
「……!」
「お静かに。知府さまに耳寄りな取引をお教えいたします。橋のことよりなにより、中央に帰れればいいんでしょ?」
耳元で甘い言葉を囁く。が、内心、オッサンに対してこんな趣味はないんだがなという思いと、米を運ぶだけのはずが何やってんだろうなという思いが混じりあって遠い目になりかかる。が、そんなことで呆けている場合ではない。今は重要な局面なのだ、一応。
呂苞の背が低いのもさらに運が良かった。高かったらこんなに簡単に口封じはできず、隙をついて茂みに連れ込まなければならなかったところだ。
「騒ぎ立てず、今から黙って俺についてきてください。部下たちには適当に言い訳をして。知府さまを害するつもりは毛筋ほどもありません。が、騒げばこれで突きます。俺は取引したいだけ」
呂苞の背中に突きつけた物で小突いてみせる。これでも、相手の性格を見極めて言葉を選んだつもりだ。仕事熱心、あるいはもう少し頭が良ければ、さすがにこの取引は疑われていたかもしれない。しかし、中央にばかり目が向き視野が狭くなっている知府ならば、「中央に帰ることができる」という言葉自体が目の前にチラつかされる依存性の薬のようで、とても魅惑的な言葉だった。
「張知府殿、どうかされましたか?」
炎と一緒に呂苞も急におとなしくなったので、部下たちが怪訝に思い、振り返って声をかけた。口元を塞いでいた手はすでに引っ込めていた。浙冶自身も暗がりで隠れてしまい、見えてはいない。
「い、いやいやいや……な、なんでもない。も、燃えてしまったものは、し、仕方がない、であろう。き、今日はみな、帰って、は、橋のことは明日、か、考えよう」
さっきまで「橋が! 橋が!」と騒いでいた知府が急に大人しくなったので、その場にいた部下たちは皆、首をひねった。が、さして興味がなかったのだろう。まだ燻り続ける炎を放置して皆、さっさと城市へと帰り始めた。
「……さあってと、じゃあ、俺に付き合ってくれますか?」
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