第15話
夢の中で、そのころのことを浙冶は思い出していた。床に就く前に樊季と話をしたからだろうか。もう何年も思い出さなかったことだ。
倒れたまま息をしているだけの浙冶を見つけた玄亥は、半ば驚き、半ば呆れた。しぶといガキだと思っているのが、ぼんやりとした視界に映る表情から読み取れた。しかし、それでも水と冷めた焼餅を与えてくれ、約束通り、拾ってくれた。
それだけで浙冶は世界が変わったように思えたのだ。
なにせそれ以前は――とさらに夢の中で遡る。と、浙冶は飛び起きた。
服が汗でぐっしょり濡れていた。髪も額に張り付いている。手の甲で汗を拭い、寝台から降りて窓を開けた。秋も深まってきたころである。夜風が冷たい。
「まったく手がかりはなかったな」
下弦の月が東の空に見え始めた。この辺りは宿が多いためか周囲は寝静まっている。しかし、飯店の集まる東の界隈はどうやら一晩中、営業をしているようだ。遠くで人の笑い声が聞こえる。
闇夜に隠されて見えないはずの城市をぼんやりと眺めながら、浙冶は昔のことを思い出していた。
盗賊衆に入る前は、ひとりぼっちで城市や村を彷徨い歩き、あまりの空腹に店先で売られていた焼餅に手を出したこともある。大人たちに追いかけられ、散々逃げ回って捕まり、殴られたり蹴られたり。そういったことを何度も繰り返した。そのときと今とでは雲泥の差である。
だが、と、浙冶はさらにその昔、幼いころを思い出す。家族がいて一番幸せだったときのことだ。
これでも比較的裕福な商家で育った。
少し厳しいが頼りになる父親と優しくて美しい母親。食べるものも寝る場所にも困らない何不自由ない生活。父親の教育方針で、何でも買ってもらえるわけではなかったが、必要なものは全て手に入れることができた。
「甘ったれだな」と父親にはよく苦笑された。読み書きや算術といった学問は物心がつく前から強制的に学ばされた。机の前に座って文字を書くよりも遊ぶほうが大好きな幼少期に、父親は息子に文字通り、『首に縄をつけて』でも習わせたのだ。それが嫌で母親の元に泣いて逃げ、取り成してもらうことが日常茶飯事だった。
あまりにも泣き虫な息子を鍛えるために父親は武術も習わせた。そのため、友人と遊んだ記憶はほとんどない。
だが、今思えば幸福な日々だった。母親は身籠っていてやがて家族も増えるはずだった。
しかし、あの日。
「
しかし、子供時分ではそんな心の機微を酌むことはできなかった。今日は大好きな菓子を母親が作ってくれるということで頭がいっぱいだった。
しばらくひとりで遊んでいると。突然、離れの納屋が爆発した。
「父さん?」
異変に気づいて父親を探しに行こうとする。と、いきなり目の前に捕吏たちが現れ、たくさんの手が襲ってきた。訳も分からず、捕まる寸前で母親に手を引かれる。
そして、裏口から一緒に逃げた。それが昨日のことのように思い出される。
朝も夜もついで必死で城市から離れた。役人を見かけると姿を隠し、人前では名前を呼ばないように母親が気を使っているのが幼心にも分かった。
そして、幾日経ったか分からなくなるくらい散々歩いて、手持ちの金も食糧も尽きたころ。母親がついに倒れた。
ごめんね、と母親は涙を流しながら息を引き取る際に言った。これ以上、一緒にいてあげられなくて。生まれるのを楽しみにしていた弟を産んであげられなくて。
それから長い間母親の手を握っていた。どういうことかすぐには理解できなかったのだ。が、時が経つにつれて、やがてその意味を理解し始めた。そこで立ち上がり、ひとりで歩き出したのだ。
故郷の城市を遠く離れ、しばらくは村から村へと渡り歩く日々を過ごした。しかし、行く先々で余所者は帰れとばかりに幾度も追い返された。食料を恵んでくれる人もいたが、決して受け入れてはもらえない。
幼いながら城市で働くということも考えたが、身元も名前すらも明かすことができない身ではまともな仕事に就くことはできなかった。
それからはすべてを諦めて生きてきた。家名も名も何もかも捨てたのだ。手に入れられるものは何もなかった。
そして、人恋しさのためだけに盗賊の一味に加わった。加わってすぐに後悔したが、抜け出せなかった。そんなときに玄亥に拾われたのである。
玄亥には感謝している。働くことでしか恩を返せなかったから、朝から晩まで休みなく働いた。それでも、浙冶は不満に思わなかった。食べ物を盗んでは大人たちの私刑に遭う日々に比べれば、はるかにいい。
そして、拾われてひとつだけ、欲が出た。
どうしても知りたかったことがある。何も知らないままで逃げてしまったから。父親がした役人に捕まるようなこととは何か。
母親から聞いて分かったことは、他人に頼まれて、してはならない品の取引をしていたらしいということ、それが皇帝や国に背くほどの重罪であるらしいということだけだった。
浙冶の疑惑は深まる。納屋を吹き飛ばしてまで消したかったものといえば取引についての証拠しかない。
ならば、その品とは何だったのか。取引をした相手は誰だったのか。なぜそんなものに手を出したのか。目的は金のためだったのか、それとも。
(まっとうな商売をして、みんなを幸せにできるのがいい商人だって言ってたじゃないか、父さん)
長葉明で働くうちに、品がどうやら薬屋に関係あったらしいことと延令府に関係あるらしいことまでは突き止めた。商売用の情報網のおかげである。
この日のために準備をした。元々学問が得意だったわけではない。しかし、寸分も惜しんで書を読み漁り知識を蓄えた。
しかし、来てみたところで結局は何も分からなかった。手段を変え、時間をかければ分かることがあるかもしれないが、もう今回以降、来ることはないだろう。
今夜の件で、樊季が浙冶を追い出してくれと玄亥に訴えたなら、おそらく玄亥は愛娘の願いを聞くだろう。玄亥は浙冶のことについてはまだ鷹揚に構えているが、葉家はいずれ尹家と縁続きになる。そのときに浙冶は確実に邪魔な存在だった。
しかし、それならそれで構わないとも浙冶は思う。自分のせいで他人の幸せを邪魔するよりははるかにましだ。それは、父親が関わってはいけない他人と関わることによって生活が一変した、自分自身の過去を思うことでもある。
「仕方ない、か」
諦めることには慣れている。先のことを考えてもどうしようもない。
浙冶は窓を閉め寝台に戻り、眠れぬ夜を過ごした。
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