第10話

 茶店を出てすぐのこと。大通りで男たち何人かが喧嘩をしていた。道行く人が足を止め、遠巻きに眺めている。


「迷惑以外の何物でもないな」


 そういう浙冶自身も、昔は大通りであろうが客の家の前であろうが喧嘩っ早く、他人に迷惑をかけていた。それを棚上げしての発言である。しかし、今は他人の喧嘩に付き合うほど暇ではない。大通りをまっすぐ進みたいが、喧嘩に巻き込まれる可能性が大だ。時間は惜しいが迂回して進むことにした。そのとき。


「危ない!」


 喧嘩を避けて道を横切ろうとした大荷物を抱えた子供が、体勢を崩した大男の下敷きになった。浙冶は急いで駆け寄った。大男を怒鳴って退かすと子供は意識を失っている。荷物も何かが割れるような派手な音がした。浙冶が大声で呼びかけると子供は呻き声を上げた。


 ほっとしたのもつかの間、喧嘩の波がまたこちらまで寄せてくる。子供を安全なところに移動させようと急いで両腕で抱きかかえて立ち上がった。が、その瞬間、浙冶は子供ごと突き飛ばされた。


(まずい!)


 体勢を崩して子供を落としそうになる。が、寸前で通りがかりの男に支えられた。体勢を立て直して改めて正面の男を見ると、官服を着た三十前後と見られる役人だった。目元が涼しげで穏やかな顔つきをしている。


(あれ? この官服の色って確か……)


 緋色である。役人は官品によって身に着ける官服の色と装飾具が決まっている。そして、地方の役人で緋色を身に纏えるのは。


「知府様! 瑯知府様だ!」

 その場を支配していた張りつめた空気が、ほっとしたような安堵の空気に変わるのが分かった。


「静まりなさい」

 先ほどまでの乱闘が嘘のように収まった。この男のひと声で。

「喧嘩の原因は何ですか?」


 物腰が柔らかで言葉遣いも丁寧である。が、口にする言葉には迫力と威厳がある。浙冶は反射的に茶店で会った同知を思い浮かべた。向こうにあったのは圧力と冷厳。慌てて比べるのをやめた。


 男五人がきまり悪そうに知府の前に並び、ひとりが恐る恐る口を開いた。

「はい……露店を出す場所でぇについて、こいつらとちっとばかし揉めやして。こいつらとは三日で場所の交替をするんですが、五日にしようと趙の野郎が」

「俺ぁ、むしろ、二日にして欲しいくらいだがな」

「それだと、お前だけが得すんだろうが! おれぁ三日のままでいい」

「静かになさい」

 またしても穏やかでありながら迫力のある声がして、一同、口をつぐんだ。

「いいですか。譲り合いというのも必要なのですよ。争いで決着をつけてもしこりが残り、また次の争いに繋がるだけです。結果、みんなが傷つき、誰の得にもなりません」


 懇々と諭す言葉の内容自体はハッとさせられるようなものではないが、話す声は力強く、心がこもっている。

「自分の得だけを考えてはいけません。自分も相手も得をするように。お互い少しずつ譲り合いなさい。いいですね?」

「はい、分かりました」

 大の男たちの素直な声が見事に揃った。瑯知府はその言葉を聞くと、今度は浙冶のほうに向き直り、心配そうに尋ねた。


「あなたは大丈夫ですか? その子は医者を呼んだほうが良さそうですね」

 抱きかかえている子供が痛そうに呻き声を上げている。見たところ擦り傷くらいしか怪我が見当たらないが、どこか骨折をしているのかもしれない。

「俺は大丈夫です。どこも怪我してないし。それより医者を呼んでくれるなら、不躾ながらこのガキ……子供の介抱を頼んでもいいですか? 付き添ってやりたいが、俺も急いでるんで」

「ええ、もちろんです。誰か! この子供を運んであげてください」


 瑯知府の声で数人が動いた。そのうちのひとりが浙冶から子供を引き取ると、どこかへ連れて行った。きっと医者に診せるのだろう。


「ところで、あなたは先ほどから何かを探しているのではないですか? 薬屋を何軒も渡り歩いているようですが。どなたかご病気でしょうか?」

 なんで今日に限って俺の行動がバレまくってるんだと浙冶は内心焦った。短時間に薬屋ばかり出入りしているから目立つのだろうか。

「いえ、知府殿のお手を煩わせる必要はありません。病人がいるわけでなく、俺個人の用ですので」

 頑張って慣れない笑顔で言葉を返し、我ながら先ほどのいけすかない同知への態度とは全然違うなと浙冶は内心、苦笑した。


「そうですか。お見受けしたところ、あなたは商人のようですね。良い品があれば、うちの官署にもぜひ顔を出してください」

「ありがとうございます。今回は通りがかっただけですが、機会があれば必ず寄らせていただきます」


 一行政府の長にしては威張り散らすこともせず、ずいぶん穏やかで人柄も良いなと浙冶は感心した。茶店の店主が言っていたことは本当のようだ。


 ここぞとばかりに、人々は知府を取り囲んで話をし出した。訴え事をしている者もいるが、中には店の品物を持ってきて渡そうとする者もいる。通りにいた民たちすべてが顔を見ただけで知府だと分かったことからすると、普段から民との接点が多いに違いない。


 浙冶が感心していると、薄汚れた服を身にまとった壮年の男がどこからともなく現れ、瑯知府を見つけると身を投げ出すようにしてひれ伏し、訴え始めた。

「お役人様ですか? どうか村を……村をお救いください!」

「どうしたのですか?」


 急な闖入にも嫌な顔をひとつせず、瑯知府は答えた。

「流行病で村が全滅しそうなんです! いろんな薬を試しましたが効きません。どうぞ助けてください!」

「分かりました。官署で聞きましょう」


 言うが早いか、瑯知府は男と連れだって行ってしまった。取り残された人々は、事が事だけに納得し、元の場所に散らばっていった。浙冶も自分の目的を思い出し、立ち去ろうとする。


(それにしても)


 延令府の知府と同知。この府の長と副官ふたりに、着いたその日に会えるとは思ってもみなかった。昌令府は、昌の城市内にある役所の南門の近くに長葉明の店があるが、官署は近いのに浙冶は知府はおろか同知の顔さえ見たことはない。誰かが見たという話題自体がのぼらないだけかもしれないが、余計な心配をする。


(役所の仕事はしてんのかな、ここの知府と同知)


 知府も同知も民の前に顔を見せすぎではないだろうか。しかし、瑯知府はいい知府だと思う。民に慕われているのが一目で分かった。いろんな役人がいるもんだなと思いながら、浙冶はその場を離れた。

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