第9話
最初の関所で、それは起こった。
荷の検査はすぐに終わったのに、なぜだか通らせてもらえない。何も問題はないはずなのだが、役人が意味ありげな視線を送ってくる。浙冶は心得たように懐から小さな袋を取り出すと、役人の手に握らせた。
「これで頼む」
すると、役人は素早くそれを懐にしまい、表情を引き締める。
「よし、通れ」という言葉とともに、浙冶たちはようやく関所を抜けることができた。樊季が不思議そうな顔をしている。
「浙冶、今のって、なんなの?」
「付け届け」
樊季と余計な話をしたくないのか、浙冶はぶっきらぼうに短く答える。
「付け届けって何? なんでそんなものいるの? 関所って荷物を調べたらそのまま通れるはずでしょ?」
次々と繰り出される樊季の質問に、浙冶は鼻を鳴らしながら面倒臭そうに答えた。
「さっきの袋には金が入ってる。下っ端役人はこれ目当てでわざと通行人を足止めをさせて、いちゃもんをつけてくる。やつらにしたら収入源だからな、必死なんだよ」
「え、じゃあ、役人にお金渡して解決したってこと?」
驚きに目を見開き、一瞬後、嫌悪を交えた声で浙冶を非難する。
「あんた、役人のこと嫌いじゃない。権威を笠に着たろくでなしとかなんとか言って。なんでいつもみたく横柄な態度で断らないのよ」
「渡すもん渡さずにいると、揉めるし遅れて厄介だからな。本当は金渡す代わりにぶん殴って通りたいところだが。てっとり早く通るにはこれが一番だろ」
鬱陶しそうに言葉を吐く浙冶に対して、樊季が呆れ声を出す。
「なんだ。いっつも『役人なんかに頭は下げない』って言ってるくせに、あんたも結局はへいこらするのね」
「何とでも言え。今回は米を運ぶのが一番の目的だ。手段を選んでられるか。世の中きれいごとだけで渡れると思うなよ」
利用できるもんは利用するのが常だ、お前みたく世間知らずには分かんないだろうがなと、浙冶は樊季に捨て台詞のように言葉を投げつけてくる。樊季はむくれて「まあ、あんたってそんなやつよね」と侮蔑を込めて返し、その後は一切話しかけてこなかった。
万事がこんな調子である。浙冶も樊季に近づかないようにした。
しかし、それとは関係ないかのように、旅はことのほか思い通りに進んだ。
浙冶が前もって計算したとおりに馬車を進め、ところどころで休憩をし、城市で宿をとる。時には野宿ということもあったが、七日間の中でまだ一度だけだった。
盗賊にも何回か遭った。が、璃鈴がいち早く気づき、すべて初動で小刀を投げて敵を一撃で仕留めた。鏢師としての意地を見せつけた形だ。
延令府の中心城市である延まであと一時というところ。
一同は見晴らしのいい小高い丘で休憩をしていた。浙冶がひとりで地図を広げていると、璃鈴が傍にやってきて機嫌よく声をかける。
「城市から出たことないにしては上出来ね。計画通りじゃない。『旅程はこっちで組ませてくれ』と言われた時は少し不安だったけど。素人が地図だけで地形を想像して旅程を組むのって難しかったでしょうに」
旅程は璃鈴たちが依頼人の要望を聞いて組むのが普通だった。鏢師同士の勢力範囲と義理といった都合もある。特に、府をまたいで通過するときはあらかじめ現地の勢力に挨拶をし、許可を入れておかなければならないという暗黙の了解があった。
ただ、璃鈴が後見を得ている蔡鏢頭のところは昌令・延令・康令の三府が主な勢力範囲であるので、璃鈴としても面倒なことがなくやりやすい。旅程を組むのは楽なはずだった。が、旅自体が初めてだという浙冶に、どうしても自分の計画通りにしてほしいと旅の前に懇願されたのだ。
地図にしても、国がいくつもあって互いに争っていた頃は機密文書と同等の扱いだった。そのころの名残で、今は庶民でも見ることはできるとはいえ、精緻に描かれたものはやはり民間では流通していない。ところどころ見にくかったり間違っていたりするものがほとんどだ。だから鏢師は経験と勘を駆使して旅程を組む。
しかし、浙冶には鏢師と同じだけの経験も培った勘もない。見にくい地図を使って頭の中で旅程を組むのだから、時には予定通りにいかないものなのだが。今のところ支障なく進んでいる。
「んー……まあな。城市から出たことないって言ったけど、以前……いろんなとこ放浪してたから。なんとなく地形が分かるというか。でも、たいしたことじゃない」
浙冶は謙遜というより、どちらかというと隠したかったものを見つかって気まずそうに言い訳をするときのような、歯切れの悪い言葉を返した。
それを察したのか璃鈴は、「そう」とだけ言って浙冶の元を離れ、樊季のところへ行ってしまった。
旅をするうちに樊季は璃鈴と仲良くなった。おかげで浙冶は、仕方なくやっていた樊季の話相手の座を璃鈴へ明け渡すことができ、余裕もできた。向こうで女性ふたりの歓声がするが、話が盛り上がっているのだろう。
(ようやく延の城市か)
次に到着予定の城市で、どうしてもやりたいことがあった。そのために組んだ旅程だ。浙冶は少し身体を動かすと、みんなに声をかけた。
「そろそろ出発するぞ。いいか?」
「あ、浙冶、待って」
すると、樊季が向こうから慌てたように走ってくる。
「簪を、璃鈴に見せようとしたら手が滑って崖下に落っことしちゃって。今、璃鈴が拾ってきてくれてるところなの。だから待って」
「簪って……あの簪か?!」
うふふと気まずそうに、樊季は笑ってごまかした。先ほど歓声だと思ったのは、簪を落としたときの叫び声だったらしい。
「あのなぁ、いいか。あの簪だけは何があっても絶対手放すなよ。あれさえあれば、お前がどんな想像の上を行くヘマをしたとしても、大事にならずにすむからな」
だいたい、許婚にもらった大事な簪をあっさり落とすか、ふつー。注意力も集中力も頭の中身もいろいろ足りねーんじゃねえの、と、悪口雑言をさらに重ねる。
いつも通りの上から目線でいつも通りバカにされ、樊季は大いに機嫌を損ねた。
「あんたに指図されるいわれなんてないわよ。とにかく璃鈴を待つの! いいわね?」
樊季は浙冶をきっと睨むと、璃鈴のところへ戻っていった。しばらくして遠くから、「璃鈴ー! どれだけ時間かけてくれても構わないわよー!」と叫んでいるのが聞こえた。
一時半時後。
一行はようやく延の城市に着いた。結局、誰かさんのせいで、昼前に着く予定が昼すぎになってしまった。
人も物も溢れんばかりで、城門近くの大通りからずらりと露店が並んでいる。様々な食べ物のいい匂いが客の胃袋を誘惑していた。皆は城市に入るとすぐ、昼食を食べに飯店を目指した。
が、浙冶はひとり、「じゃあな」と言って足早に別れた。背後から樊季が呼ぶのが聞こえたが、璃鈴たちには夕方城門近くに戻ると説明してあるので問題はない。
浙冶はしばらく何かを探しながら大通りを歩いていた。やがて、薬屋の看板を見つけると店に入り、訊きこみを始めた。
「店主、忙しいところすまない。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
人にものを訊く場合に、「すまない」という相手の都合を考慮する言葉を入れることを、浙冶は最近になって覚えた。樊季に言わせると、「浙冶に礼儀を覚えさせるより、犬に芸を覚えさせる方がずっと簡単」だというのだが。
「坊主、なんだい?」
生薬が入った薬箪笥のほうを向いて残量を確認していた店の主は、手を止め、振り向きながら温和な声で返答した。浙冶が安心したように質問を続ける。
「十年くらい前にさ、ある商人がこの城市に来なかったか知りたいんだけど」
「なんて商人だい? 商人なんて掃いて捨てるほどいるからねぇ。名前を聞いただけじゃ思い出せないかもしれないねぇ」
人の良さそうな店主は、しかしできるだけ思い出してみるよ、と、浙冶の話に誠実な対応をしてくれた。しかし。
「助かるよ。俺が聞きたいある商人ってのはさ……」
店主の耳元に顔を近づけ、周りに聞こえぬよう小声でその名前を口にした。瞬間、店主の顔色がサッと変わった。
「悪いが、出てってくれ」
「あんた、もしかして知ってるのか?」
「知らん知らん! いや、お前さん、早くここから出てってくれ!」
途端に店から追い出されてしまった。
その後も城市内の通り沿いの薬屋を順に一軒一軒片っ端からまわったが、どこもかしこもこんな調子で収穫はまったくない。中には、追い出されて水をかけられたこともあった。
結局、城市中を一時あまり駆け回ったが知りたいことは何も分からなかった。さすがに疲れてもう動けない。倹約を旨とはしているが、浙冶は我慢できずに目の前の小さな茶店に入った。
「一番安い茶を、頼む」
浙冶は店の者から声をかけられる前にさっさと席に座り、大声で注文を飛ばした。店は夫婦だけで切り盛りしているようで、半ば露店の状態である。高級な茶店という感じはしない。
店主の妻が棗を持ってきた。買うつもりはないことを伝えたが、「たくさんいただいたのでお裾分けですよ」と小さな青りんごのような実をいくつか卓の上においてくれた。しかし疲れ過ぎていたので食べることはせず、運ばれてくるまで浙冶は卓に突っ伏していた。
「お待ちどうさまでございます」
しばらくしてお茶を運んできたのは、恰幅のいい、人懐っこそうな中年の男だった。
「うちのお茶はどの茶葉も良いものを仕入れているんですよ。ごゆっくりお楽しみください」
『良い茶葉』と聞いて、浙冶は慌てて主人に値を確かめた。良かった、想定内の値段だ。
しばらく茶を飲みながら外を眺めていると、気になる男が視界に入ってきた。
どこかで見た、いや、誰かに似ているような気がした。浙冶より少し年上という感じの青年。服や髪型といった格好は一般的な平民ものだ。上背があるためか袍は普通より長めであるものの全体的に質素で、髪を頭の上で纏めていた。非常に目鼻立ちが整った顔をしている。が、今日ここに着いたばかりの浙冶でも分かった。明らかに平民ではない。
「なぁ、店主、あれは? あいつ、庶民じゃないだろ」
浙冶は先ほど茶を持ってきた店の主を呼びよせてその相手を示した。店主は「あれ」が誰なのか一目で分かったようだ。
「ああ、あの方は
「え? あれが同知?」
しかし、そんなお役人がこんな庶民しか来ない場所に、規定の官服ではなくわざわざ平民の格好をして何しに来たのか。しかも、お忍びにしては店主にもばれている。浙冶はどちらかというと後者の意味で驚きの声を上げた。
「上のすることは分かんねーな。頭が良すぎると何とかと大差ないってのは本当かもな」
「あまり、他人と話をするのを好まれる方ではないようなんです。これが
「瑯知府ってのがここの長官なのか。そんなにこの辺によく来るのか?」
「よくお見かけしますし、こちらの挨拶にも気軽に答えてくださいますよ。楊同知様は、たまにお見かけする程度ですが……あの通り近寄りがたいので、お会いしても頭を下げるだけですし、こたえてくださることはほとんどありません」
「ふーん、お高くとまってるんだな」
そう言いながらも、浙冶は何か引っかかりを覚えた。ここから見える楊同知の周りにいる人間は、ほとんど関心がないのか挨拶すらしない。たまに、若い女性たちが振り返って黄色い声を出すくらいだ。実は、と店の主は声を潜めて続ける。
「楊同知様がこちらに来られたのは四か月ほど前なんですが、それ以前に同知様がひとり、行方不明になりまして。出奔したとかなんとか噂が立ちましたが、結局見つからず。その後任としていらっしゃった方なんです」
「行方不明? 理由も分からずじまいなのか?」
浙冶もつられて小声で返す。
「ええ。しかし、失踪直前に何かに悩んでいらっしゃったというのがもっぱらの噂で。今年は巡按が監察にくる年なので、何か不正を犯したのをばれる前に逃げたのではないかと言われています」
自分の住んでいる地域の不祥事を、よそから来た人間にペラペラと喋っていいのかなと浙冶は思ったが、面白そうなので黙って聞いていた。
「楊同知様のことなんですが、一般には素性が知られていない。ある程度のお役職に就かれるお役人様はそのお家柄や御経歴など、噂で伝え聞くことがあるものなんですが。あの方についてはそういったことを一切聞かない。代わりに」
あまりよくない噂を聞きます、とそこで店主は言葉を切った。たった今噂をしていた相手がこちらに近づいてきたからだ。そして、近くの卓についた。
「亭主、茶をくれ。上等なやつでなくていい」
かしこまりました、と店の主は逃げるように店の奥へ引っ込んだ。しばらくして茶器を持ってくると、その男の前で茶を淹れ、「どうぞごゆっくり」とだけ言い、また奥へと消えてしまった。
浙冶は気になって相手をちらちらと盗み見た。歩き方とか仕草が誰かに似ているような気がするがまったく思い出せない。
「私の顔に何かついているか?」
視線はこちらを向いていないくせに、言葉だけをかけてくる。浙冶は慌てて目を逸らした。まあいい、役人なんて自分に関わりのない種類の人間だ、そう思って茶を飲み干そうとすると。
「昔の、ある商人について調べているのは貴様か?」
浙冶はぎょっとして相手を振り返った。聞きまわっている事柄が事柄なだけに、心の片隅では公にはできないまずい話という認識は持っていた。が、今日この城市にきたばかりの、たかが一庶民の行動など、まさか見られているとは思ってもみなかった。
「興味本位なら手を引くがいい」
相手は相変わらず、こちらを一瞥もせずに言葉を発する。その態度に浙冶はむっとした。
「あんたに指図されるいわれはないね。こちらの好き勝手にさせてもらう」
「私はお前に警告をしている。忠告ではない。手を引かねば、後悔どころではすまなくなるぞ」
「へぇ、さいですか。一応、肝に銘じて置きます」
まあ、どうせすぐ忘れるけどな、お前のことも、と浙冶は心の中で付け足した。しかし、その忘れる予定の相手がさらに聞き捨てならない言葉を吐いたことで、記憶から消せなくなった。
「葉……浙冶か。嫌な名前だ。もっとましな名前を付けるべきだったな」
「へぇ、俺の名前が初対面のヤツに知られてるなんてな、俺って有名人なのか?」
平静を装ったが、内心ぞっとした。名前くらい、調べることは容易い。驚いたのは名前を知っていたことではなく、「ましな名前を付けるべき」と言われたことだった。偶然かもしれないが、もしかすると、あのことも知っているのかもしれない。
(やはり知ってるやつか? 俺が思い出せないだけで)
記憶力には自信があったが、うっかり忘れているということもなくはない。そう考えたほうがまだマシだ。知らない相手に自分のことが知られていることの方が厄介だった。
浙冶は気を取り直して席を立った。
「さてと、そろそろ行くか。店主、お代はここに置いとくからな」
またどうぞいらしてくださいとの声を背中に聞きながら、浙冶はもう一度、楊士准といわれた男のほうを見た。
しかし、相手は大通りを見やって考え事でもしているのか、とうとうこちらを一顧だにしなかった。
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