第8話
「やっと着いたわねー」
樊季が嬉しそうに声を上げた。浙冶は馬車から降りて大きく伸びをする。
昼過ぎに
馬車ごと城市に入り、すぐに昌令府の営業許可証を持った仲介屋を探した。旅に必要なことをここに頼むと、面倒な手続きをすべて請け負ってくれるのだ。当然金がかかるがこういった旅には欠かすことができない。
今回は馬車と荷を預かってもらっただけだった。が、馬の状態を見て疲れたり蹄に不調があるようなら馬を換えることができる。当然、預ける間は世話もしてもらえる。さらに、ここで頼めば安全な宿の手配もしてくれるという便利さだ。
手続きをすると割符を渡された。これで預けた客と荷が判別される。割符はいつも浙冶が持つことにあらかじめ決まっていた。
「じゃあ、飯を食いにいくか」
もう昼過ぎである。そのまま飯店を探した。
「ここもいろんなお店があるのねー」
食べ物の露店が門の側から多く並んでいる。
食べ物以外にも、包丁や武器といった刃物を研いだり修理したりする店もあれば、竹籠や籐笠などの細工ものを売る店もある。物が豊富で売り買いが盛んであれば、人や城市は活気づき、潤う。
浙冶はこれらの店を注意深く観察していった。ふと、山のように積まれている瓜が目につく。この辺りの瓜類の時期はとうに過ぎている。きっと暖かい地域から仕入れているものだろう。自分なら仕入れの経路はどうするかと想像しながら歩いた。
しかし、そういうふうに考え事に浸りはじめると、だいたい予想通りの邪魔が入る。
「ねえ、浙冶。いい加減その擦り切れた服を変えなさいよ。あんた、そういうところケチよね」
ただの邪魔なら仕方がないと諦められる。浙冶限定で神経を逆なでするのが樊季だ。そのたびに、「俺、いつまで手を出さずにいられるかな」と少し遠い目になりかかる。
「節約してるって言えよ。服なんて何枚も持ってたって仕方ないだろ」
とりあえず、怒鳴らずに冷静に返してみる。服は着古して少しばかり綻んでいるところもある上、汚れが目立たぬように最初から濃紺色を選んでいた。残念ながら、あまり身長の変化も見られないのでしばらくは変えたことがない。
「仕方なくないわよ。だいたいあんた、服って何枚持ってるのよ?」
「二枚」
樊季の思いっきり引いた表情を見て、浙冶がすかさず反論した。
「なんでだよ? 二枚で充分だろ。汚れたら洗って干してすぐ着るんだから」
「じゃあ、お昼に具なしの麺ばっかり頼むのは?」
長葉明で働く者は、昼はそれぞれ飯店に食べに行く。が、浙冶は同じ店で同じものしか注文しない。それも、あの辺りで一番安い飯だ。樊季は店には顔を出さないのにどこから情報を得ているのか。気にはなったが、店の者たちが広めているのだろうと想像がつく。
「俺がそれを食べたいんだから、別にいいだろ? ほっといてくれ」
「……どけち……」
樊季がぼそりと呟いたのを浙冶は無視した。食べるものも着るものも構う性分ではない。
「この店でいいかしら?」
いい時分で璃鈴が声をかけてくれた。扁額に『華料飯店』と太墨で書かれた、ごく普通の飯店である。
「俺はどこでも。お前は?」
樊季も「いいわ」と告げると、先に店に入るよう璃鈴に言われた。
みんな同じ店で食事をするのだが、一応、浙冶と樊季は依頼主側なので卓に座るときは璃鈴たちとは別に座る。樊季は目立つので城市では常に布で目以外の部分を隠すように言われた。それを脱ぎ、ふうと息をつく。
店の者は最初、型通りの挨拶をしたあと、卓を指差した。そこに座れという意味らしい。
が、樊季のあるものに気づき、慌てて一番奥の広くて調度品の整った席へ案内をすると、店の主人を呼びに行って挨拶に来させた。注文を聞く際の対応も非常に丁寧である。
樊季は特に高価なものを身に着けたり豪奢な服を着ているわけではない。普通の庶民の、年頃の娘らしい少しだけ洒落た格好をしているだけだ。
しかし、『傾城の』と囁かれるくらいの容姿は、どんな衣服を着ても城市では目立った。少し前までは外に出るたびに、幅広い年齢層の様々な男たちに声をかけられるので、付き添いの者が必ず同行したほどである。ところが、最近は同行者がいなくても歩けるようになった。その理由は。
「ほんっとそれ、よく効くよなあー……
半ば呆れたように浙冶が樊季の頭を指差す。その艶やかな黒髪には非常に存在感のある簪が挿してあった。
皇族と貴族だけが持つことを許される身分を示す印、それを持つ簪。樊季が持つそれが表すのは、皇帝に次ぐ、唯一の貴族である尹家のもの。皇帝と祖を同じくし、数々の特権を持ち、政治にも参画する尹家。時にその勢力は皇帝をも凌ぐと噂された。その尹家から贈られたものだ。
金で作られた本体には、鳳凰を模した印が彫られた純度の高い
樊季は尹家の総領に見初められて婚姻の約束を交わしている。だからその簪は絶対に『手を出してはいけない女』であることを示した。もし指一本でも触れれば、尹家からどういった報復が待ち構えているか分からない。この店の者もそれに気づいた。樊季はせっかく尹家からもらったものだから、と身につけているだけだが、人と場所によっては絶大な効力がある。
「しっかし、分からんもんだよな。最近、皇帝の寵愛を受けているのはお前によく似た感じの娘らしい。家は由緒ある武門の家柄だそうだ。残念だったな」
残念だった、というのは、樊季が宮中の役人に薦められて二年ほど前に后妃の選に出たことを差している。選ばれれば後宮に上がり、平民の娘であろうと貴妃の位につくのも夢ではない。
しかし、樊季は選ばれなかった。
選から漏れたのは本人の資質のせいではなく、ただ単に商人の家柄だったから。まさに国中から半ば狩り集められた平民の娘たちの中では、唯一樊季だけが商家の出だった。身分に関係なく妃嬪は選ばれるとはいえ、商人は平民の中でも特に低く見られる。選ばれることもほとんどない。
噂の寵姫は名門の出であり、平民の娘たちとは画して後宮へと入った。それが半年前。
その後皇帝に一目でその容姿を気に入られ、その日から傍に仕えているという。
寵姫の絵姿を見た商い仲間の話からすると、どうやら樊季にとてもよく似ているらしい。年頃も同じくらいだと聞く。商人の娘と知りながら后妃の選に宮中の役人が薦めたのは、おそらく樊季が皇帝の好みに合うと踏んだからであろう。
が、樊季はつんと澄まして答える。
「興味ないわ。私は嬰舜さま一筋なの」
樊季は許婚の名を口にした。浙冶が指を折りながら、玄亥が話していた樊季の想い人の長所を挙げていく。
「美形で背も身分も高くて大金持ちで、その上才気にあふれていて性格も柔和でありながら果敢なところもあり、
それを聞いて樊季が胸を張りながら得意げに答える。
「そうよ。あんたとまったく正反対。素晴らしいでしょ、嬰舜さまは。『残念だったな』なんて、あんたに言われる筋合いはこれっぽっちもないわ」
浙冶は少々呆れ口調で返した。
「まあ、嬰舜てやつも、庶民からすれば雲の上の御方には違いないしな。見たこともないような豪華な暮らしをするっていうなら、皇帝とそう変わりないか」
后妃の選に興味がないと言った樊季は正しい。事実、市井の娘たちは、後宮に上がって皇帝の寵愛を受けるよりも、好き合った相手と一緒になったほうがずっと幸せになれるとだれもが知っている。その相手が皇帝に比肩する大貴族の総領ならば、なおのことである。
「そんなんじゃないわよ。危ないところを助けてくださったの。一目惚れよ。人を好きになるって理屈じゃないもの。がさつで気の利かないあんたには分からないと思うけど」
おそらくたまたま、嬰舜が尹家の人間でその尹家が大貴族だったというだけで、樊季にとっては婚姻相手の身分は関係ないのだろう。
「あーそうかい、そりゃ相手もお前みたいなのから想われて、男冥利に尽きるだろうな。せいぜい幸せになってくれ」
浙冶は嫌味を含んだ返答をして行儀悪く卓に肘をつき顎をのせた。しかし、言葉とは裏腹なことを考える。
(まあ、良かったよな。こいつ、婚期を逃すんじゃないかって沈んでたらしいから)
樊季はその美貌に反して、なかなかいい相手に巡り合えなかった。この国の女性は十四になれば結婚ができる。十六では適齢を過ぎるか過ぎないかといった微妙なところだ。
樊季に言い寄る相手は多かったが、たとえその気になったとしても、なぜか成就はしなかった。しかしようやく運命の人と巡り合えたのである。樊季が浮かれるのも無理はない。
ちなみに浙冶が言っていた、簫という役人に振られたのは樊季自身のせいではなく、その男が出世を見込める縁談を受けたからと聞く。出世と愛情を天秤にかけて相手は出世を取ったわけだ。むしろ、こちらから願い下げである。
注文した麺が卓に置かれると、すすりながら浙冶は続けた。普段、態度が悪く言葉遣いも乱暴なわりには、意外にも食べ方はきれいである。
「お前さ、もう向こうの家に行ってもいいんじゃないか? 花嫁修業と称してさ。早めに行けば大貴族様のしきたりや礼法なんかを仕込んでもらえるからな。あっちはあっちでお前のこと、大歓迎してくれるぞ」
樊季はにっこりと微笑んだ。
「うちは父親一人、娘一人の家族だから、私はもう少し親孝行がしたいの。娘が少しでも親の傍に長くいてあげるのが悪いっていうの?」
浙冶が一瞬、食べる手を止め、複雑な顔をした。樊季は「なにか?」と口元は微笑んだまま、鋭い視線で問いかける。
「いや別に。親父ももう少し考えてやってくれよなぁと思っただけさ」
「それ、どういう意味よ」
浙冶は答えず、その後はひとことも喋らずに黙々と食べ続けた。
大変お待たせしました、と、平身低頭の店員がようやく樊季が頼んだ料理を持ってきた。
松の実や落花生など数種類の木の実が入ったお粥に鶏肉と
樊季は料理を作ることが好きで、食べることも好きである。そのうえまったく太らない。しかし、女性ひとりで食べるにはかなりの量である。
「お前、よく食べるなぁ。なんで太んないんだ?」
旅を始めてから何度目かの浙冶の呆れ顔だ。ちなみにまだ半日しか経っていない。
「だって、いろんな料理を食べてみないと料理の幅が広がらないし、美味しいものが作れないでしょ。ほら、あんたも食べるの」
樊季は鶏肉の煮物の皿を浙冶のほうに差し出した。それを浙冶は樊季のほうへ押し戻す。
「俺はいい。お前が頼んだんだからちゃんと全部食えよ」
「私ひとりでこの量を食べられるわけないでしょ。いろいろ食べてみたいから頼んだの。これくらい協力しなさいよ」
「はぁ? お前、食い切れないのに頼んだのか?」
「あんたが食べなくて私も食べきれなかったら、これらの料理は全部、畑の肥料よ」
浙冶は黙って料理に手を付け始めた。性分からして食べ物を無駄にできるわけない。
樊季も粥をお椀にすくって食べ始める。粥の温かさが胃の腑にじんわり伝わると身体に元気が満ちてくる。
浙冶はそれぞれの料理から少しずつ小皿に取っていた。しかし、小皿に盛られた料理はほんの少量で、それだけを食べると箸を置こうとする。
「そこでやめないでよ。もっと食べられるでしょ」
「お前、俺がすでに飯食い終わってるのを知ってるか?」
「あれだけじゃ、お昼御飯て言わないわよ。ほら、もう少し食べなさい」
「次はこんなに注文するなよ!」
浙冶は再び箸を手に取った。
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