第4話
玄亥の部屋から三部屋分離れたところに樊季の部屋があった。今度はその戸の前に立つ。
が、すぐに声をかける気にはなれなかった。頭を振っては前髪を掻き上げるということを繰り返し、もたもたしている。
樊季とは仲が悪い。なぜなのか理由は知っていたが、だからといって修復する気はさらさらなかった。そして、普段はなるべく顔を合わせないようにしている。
ぐずぐずしていても仕方がない。浙冶はようやく意を決し、戸へ向かって声をかけた。
「樊季、いるか? 浙冶だ。入るぞ」
「…………」
人がいる気配がするのだが、返事がない。浙冶はもう一度、今度は戸を叩きながら大声で呼びかけた。
「おい、樊季! 親父に頼まれた用がある! 中にいるんだろ! 入るぞ!」
そう言って戸を勢いよく開けた。細かい気遣いとか配慮とかは一切しない。
部屋に入ると、花楠で作られた
次に目に入ったのは、部屋の隅に置かれた銅製の鏡台とその前に腰を下ろし、強張った表情でこちらを注視する少女、樊季の姿だった。
漆黒の長く艶やかな髪、雪のような白い肌、澄んだ瞳に紅い花びらのような唇を有する整った
ただし、黙っていれば。
樊季はしばらく無反応だった。自分の部屋に無断で他人が入ってきた。その常識外れの出来事に頭がついていかない。しかし、ふた呼吸ほど置くとようやく我に返り、浙冶へ向かって一気に捲し立てた。
「ちょっと! 入ってもいいって言ってないのに、勝手に入ってこないでよ! 年ごろの娘の部屋に許可なしで入るなんて、あんた、おかしいんじゃないの!? 着替えでもしてたらどうするつもりなのよ! 普通ならお役所へ訴えられて捕まるわよ!」
樊季の怒りの主張。至極当然である。しかし。
「ああ、そうかい。こっちはお前が何をしてようと興味ないんで。用件だけ済ませりゃさっさと退散するから、とりあえず話を聞け」
浙冶はさらに火に油を注ぎまくるような横柄な返事をした。
「だから、あんたのそういうところが大っ嫌いなのよー!」
装飾品箱、手鏡、簪、
辺りに物が散乱し手元に投げるものもなくなり、樊季は疲れて椅子に座り込んだ。乱れた呼吸を整えていると、そこへ憎らしい声が追い打ちをかける。
「そろそろいいか? 気が進まないが」
「バカーっ!」
か細い腕を振り上げて飛びかかってきたが、またもや浙冶は身を翻した。そして、勢いづいて転びそうになる樊季の身体を前方から腕一本で掬い上げる。
「バカはどっちだ。気をつけろ」
身の丈は樊季より低いが、浙冶は割と力がある。悔しさで顔を真っ赤にした樊季を椅子に再び座らせた。
「悔しい……こんなやつに……」
「親父が塩の売買をしたいらしい。お前も協力しろ、だと」
呟かれた恨み言を一切無視して、浙冶は腕を組んだまま話を始めた。塩の入手方法と販売場所。そのための準備と必要なもの。そして、旅程は四十五日ほど要すること。
話を淡々とし終えて、浙冶は念の為、確認した。
「……ってなわけだ。分かったな?」
すると案の定、想定内の言葉が返ってきた。
「あら、そうなの。まあ、頑張って」
すっごい適当な返事である。浙冶は瞬時にぶち切れた。
「お前、いっつもそうだよな! 俺の話を適当に聞き流すんじゃねーよ! 協力しろっつってんだろ! お前も行くんだよ!」
「聞き流してるのはあんたの話だからよ! だいたいなんで、私があんたと一緒に行かなきゃいけないのよ!」
「ほんっっとーに何も聞いてなかったんだな! 親父の命令だよ! それに今回は取引相手は役人ばっかだからだって、さっきから言ってるだろうが!」
その言葉を聞いて樊季はようやく理解した、ような表情をした。
浙冶は、店を管理する仕事においては有能だ。が、肝心の接客は壊滅的。愛想を振りまけないしおべっかが使えない。気に入らない相手に対しては、以前なら客相手でも構わず拳が飛んだ。最近はようやく自重できるようにはなったが、すぐに態度に出る癖だけは直らない。その上、役人が大嫌いなのだ。ある程度までは我慢して交渉できるだろうが、何かの拍子にキレないとも限らなかった。そのことは浙冶自身も自覚している。
しかしそれは、誰もが納得できるような表向きの理由。もうひとつ別の、本当の理由がある。浙冶以外には玄亥と東宜だけが知っていて樊季は知らない理由。それについて、浙冶はこのとき樊季に言わなかった。
「ねえ、このお仕事、よりによってなんであんたなの? で、どうして私も行かなくちゃいけないの?」
他にいくらでも適役はいると言いたげだ。それについては、珍しく浙冶も同意見なのだが。
「知るか。親父の考えはよく分からん」
たとえ適任じゃないことが明白でも、玄亥が決めたならそれはすでに決まったことなのだ。やりたくなくてもやらなければならない。
「それで」
少し落ち着いてきた樊季が、まったく悪気なく聞いてきた。
「どうやってお役人とお塩の取引をするの?」
ついさっき話したばかりだ。が、ここで怒鳴ると振り出しに戻る。浙冶はまず深呼吸をした。そして、今度はほんの少しだけ丁寧に説明をしてみる。
「まず、指定の防衛所に米を持っていくだろ。そこで米を納めると受取手形がもらえる。で、次に指定された沿岸に行って塩場を管理する役人に手形を提出する。すると手形に書かれた分だけの塩と
樊季に手順を話しているうちに、行ってもいないのに疲れてきた。
「それって、お米を納めた分だけお塩がもらえるってこと?」
「まあ、そうだ。納める量は自分たちで決められる。出発する前にここの役所に届け出ておく必要があるけどな。あと、納めると決めた分は必ず期日までに届けなきゃいけない」
仕入れて売るという手間が普通の商いより煩雑だ。しかも、お役所相手なので事前申告したとおりに実行しなければいけない。不測の事態が許されない。
「そんなに苦労してまでお米を運ぶなんて、お塩ってそんなに儲かるのかしら? 運ぶだけでもお金かかるのに」
運搬に必要な多額の費用と塩での儲けを気にするあたり、樊季も一応、商人の娘である。
「なかには正規の方法以外で手に入れて儲けまくるやつもいるらしいけどな。普通に売っても十分儲かる。まあ、確かに運搬費用はこっち持ちなんだが、次に税を納めるときにはその分引かれるからな」
あと多分、玄亥は塩で儲けることが今回の目的ではないように思える。しかし、そのことも樊季には伝えなかった。必要なこと以外を話すとややこしくなると判断してのことだ。
「そうなの。それで、どういう道順で行くことになるの?」
「それはだな」
浙冶は地図を広げた。襄国にはたくさんの城市があるが、それぞれ所属する行政府がある。ここ昌の城市が所属するのは
「行きは延令府と康令府を縦に通過することになる。でも、帰りは、製塩所が康令府の東の沿岸にあるから別の道を通る。康令府の北方にある防衛所に着いたら、そのまま沿岸部に行って、康令府を通って、延令府は端の方だけ通る。行きはこう行くだろ。で、帰りはこう帰る予定だ」
地図上の延令府と康令府を真っ二つに割るように指で上へとなぞり、康令府の上のほうで指を横一文字に移動させると、沿岸から康令府と延令府の東の境を掠めるように下へなぞった。
「何事もなければ二十日で十分着く。帰りも、塩を売る日にちを計算に入れても三十日はかからない」
五十日弱だ。日数は結構長い。いくら世間に慣れさせるためとはいえ、玄亥はひとり娘をそんなに長期間慣れない旅に出して父親として平気なものなのだろうかと浙冶は首を傾げた。
「ねえ、ところで、宿ってあるの? まさか野宿することになるの?」
そんな浙冶の疑問とは無縁に、樊季は旅の宿泊先について質問した。若い娘にとってかなり重要なことだ。玄亥が質素倹約を旨としているため、樊季は贅沢に慣れたお嬢様育ちをしているわけではないが、この城市から一歩も出たことはない。玄亥も心配していたように世間知らずなのは確かだ。浙冶は少し考えてから答えた。
「んー……そうだな。途中、小さな城市はいくつか通るから日にちを調整してそこに泊まれるようにはする。けどな、やっぱ野宿もする羽目になるかもな」
「あら、あんたにしては珍しく気を遣ってくれるのね」
樊季は見直したわと言いかけたが、浙冶がかぶせるように無神経な会話を続けた。
「そりゃな。だって、米は当然、荷馬車で運ぶだろ。馬って大量に水飲むらしいし餌もきちんとやらなきゃいけないから、野宿はできるだけ避けたいしな。盗賊に襲われるのも厄介だし」
「ちょっと! 私のことは考えてくれてないの?!」
「米と馬と塩の次ぐらいには考えてやる」
樊季が抗議の声をあげようとしたが、すかさず浙冶の声が入る。
「村はいくつか通るだろうから、見つけたら、まあ、そのときは頼んでみるが」
この国の人々は主に防壁に囲まれた城市の中で生活している。そういった城市がひとつの府の中に大小数多く存在した。しかし城市の外にも人はいる。その人々が集まって住み、形成しているのが村だ。城市から離れた平野部に無数に存在するが、どこにあるのかは、役所ならともかく、庶民が目にする地図では分からない。
「そう。村があるといいわねー」
樊季は浙冶への怒りは一旦忘れ、両手を合わせて拝むような恰好をした。城市から出たこともないのに、いきなり野宿をさせられるのはかなり酷である。
「それにしても、父さまも何考えてるのかしら。こんな奴でも一応……男と一緒に長旅なんて。私には
嬰舜、というのが樊季の許婚の名前だった。樊季はぶつぶつ文句を言う。浙冶もそれを玄亥に問い質したところ却下された、ことは面倒くさいので言うのをやめた。
「お互い仲が悪いから、だろ。『間違い』なんて、天地がひっくり返っても起こりえないし。お前に手を出すくらいなら三軒隣の蘭婆さんを茶に誘って世間話したほうがマシだし」
「なによ、それ。あんた、そんな趣味があるの?」
「もののたとえだろ」
浙冶は地図を片づけた。
「まぁ全責任は俺が取るから。役人どもの相手はお前がしっかりやれよ」
また元の横柄な態度に戻った浙冶に対し、樊季は呆れたように言葉を返した。
「あんたねぇ、ひとに頼みごとするのになんっっでそんなに偉そうなのよっ!」
浙冶はさらに、煽る。
「あ? 頼みごとしてるつもりなんざ、まるっきりないが。やれと言ってる。命令だよ、め・い・れ・い」
「あんた、ついさっきまでは珍しく普通にちゃんと会話ができてたじゃない。どうしていつもそういう感じでできないのよ!」
万事がこうだ。浙冶は馬が合わないからと言い張っているが、このふたりの衝突の原因は、浙冶のこの性格にある。そしてここでも、最後に浙冶は余計なことを言い放った。
「さっきは想像力を働かせて、お前以外の誰かを相手にして喋ってるんだって自分に思い込ませたからな。いやぁ、俺、頑張ったわ。よし、とりあえずやるべきことはやった」
じゃあな、と浙冶が部屋を出ていこうとしたとき。花瓶が飛んできて浙冶の顔を掠め、壁に当たり、壊れた。
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