葡萄酒の河

 鬼怒きぬがわ河川敷かせんじきを一人の男が歩いている。

 夜のとばりはとうに落ち、腕に巻かれた時計の長針はいただきを過ぎてから大分と経っていた。だるような夏の夜のことである。昼には汗を流してランニングにはげむ人々も、この時間には、なりひそめ、とぼしい月明りの下には人の影もない。ただ、河沿いのまばらな街路樹がいろじゅにとまるせみの声だけがいたずらに大きく響いている。

 男の片手には葡萄ぶどうしゅそそがれた酒瓶さかびんが握られている。男は思い出したように立ち止まると葡萄酒ぶどうしゅをあおいでは、もう何時間もかけて、ふらふらとした足取りで河川敷かせんじき彷徨さまよっていた。男の無茶むちゃ酒飲さけのみを制止せいししようとする者は誰ひとりとしていない。それもそのはずである。男はそれをうとんで、初めからわざわざこの時間帯と界隈かいわいを選んで飲み歩いているのだから――。男は自暴自棄じぼうじきになっていたが、その反面はんめん、頭のすみでは奇妙なほど冷静でもあった。

 男が突如とつじょ、立ち止まったかと思いきや河川敷かせんじきの草むらに葡萄酒ぶどうしゅまった反吐へどを盛大にらした。ぷんと鼻をつく胃液の臭いが夏の夜の暑さの中にただよった。男は自分の口から出た吐瀉物としゃぶつを見て安心した。家を出る前に服用したこう鬱剤うつざい精神せいしん安定剤あんていざい、それといくつかの睡眠すいみん導入剤どうにゅうざいは無事に消化され、今や血中に溶け込んで脈々みゃくみゃくと流れていることを確かめることができたからである。しびれて鈍化どんかした脳髄のうずいで男は吐瀉物としゃぶつをまじまじと観察すると、またもや覚束おぼつかない足取りで河川敷かせんじきを歩き始めた。

 男が公立中学校の非常勤講師として勤め始めてから、もう六年の歳月さいげつが経とうとしている。しかし、それももう限界であった。彼はうだつの上がらない薄給の講師のまま二十八歳を迎えようとしていた。薄給ゆえにいまだに一人立ひとりだちできず、不本意ふほんいながらも父母ふぼすねかじって暮らしている。そのうえ上司にも恵まれず、金にもならない仕事をかかえ、丁稚でっち奉公ぼうこうのような日々を孤立こりつ無援むえんの中で送ってきていた。彼がこれまでに〈奉仕ほうし〉してきた学校は六つになるが、そのどれもが彼を使い捨てのこまのようにあつかっていた。教職免許状を所有するワーキングプアはどこの都道府県でもあふれている。

 学校長や教頭は「正規に雇用されるまで何事も経験の積み重ねだから」という言い分で非常勤講師らに金にもならない仕事をあの手この手ですすめてくるものである。男も長らくその言い分におどらされていた一人であったが、二年、三年と月日が経っていくうちに、この底の知れない坩堝るつぼに疑問を覚え、ある日をさかいにそれらの一切いっさいを拒絶した。服務ふくむ規定きてい遵守じゅんしゅすることにしたのである。

 男が拒絶した翌日から、職場の同僚や上司も同様に彼を拒絶するようになった。とうとう最後には露骨なまでの教頭の威圧の前に屈することとなった。教頭の口から「その反抗的な眼付きが気に食わない」と言われた日には男は愕然がくぜんとするほかなかった。そのようなはりむしろの上で黙々もくもくと職をこなしてくうちに、男の神経は過敏かびんになり、あるいは摩耗まもうしていった。最後に残されたのは一本の緊張した糸のような精神だった。彼が明日の不安を自ら誤魔化すために薬と酒におぼれるようになるまで、さしたる時間はかからなかった。男は飲めない酒をあおり、強い薬を常習じょうしゅうしながら、深夜の街をてもなく徘徊はいかいするようになっていった。

 しかし、この夜は違った。男は茨城いばらき埼玉さいたまを結ぶ河橋せんきょうを目指して歩いていた。「今宵こよいこそ、あの武骨ぶこつな橋から身を投げて、身体をしこたま打って死んでやろう」と決意していたのである。葡萄酒ぶどうしゅと薬は恐怖を退しりぞけるための男の最期の心のどころであった。

 男は赤錆あかさびだらけの橋の上まで千鳥ちどりあしでやって来ると、遥々はるばる目下もっかに広がる河を眺めた。かすかに揺蕩たゆたう泥のような重みをもった黒水くろみずが、男が飛び落ちるのを待ち構えているようであった。男は手にした葡萄酒ぶどうしゅびんを月明りで透かして見た。すると、橋の下でうごめみずと同質のものがびんの中でもゆらりゆらりと波打なみうっているのであった。

「ああ、俺は葡萄酒ぶどうしゅの河に身を投げるのだな」と男は何とはなしに思いをせるのと同時に男の胸を激しい空虚くうきょおそった。 

 薬の山と葡萄酒ぶどうしゅの河におぼれてあえぐ自分を思うといたたまれなかった。どこまで行っても、変わることのできない、おろかなおのれ性分しょうぶん隙見すきみしたような気がしてなさけなくて、くやしくてたまらなくなった。男は鉄橋てっきょうの手すりにしがみつきながら長い間、子どものように泣いていた。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか、肩に手をれる者があった。涙でれた目で見上げると、そこには男の父親が立っていた。

 男にはどうやって、父親が自分の居場所いばしょを知ったのか分からなかった。あるいは初めから、男の後ろを着いて来ていたのかもしれない。肩に乗せられたてのひらは温かった。終始しゅうし無言むごんではあったが父が何を語りたいのか男には充分に伝わっていた。男は父の愛にひたりながら、びんに残された葡萄酒ぶどうしゅさびまみれた鉄橋てっきょうの上から、黒くつやびた河へとそそぎ続けた。


                                                     (了)




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