小さな戦争

 春のこくがり。庭に植えられたハクモクレンの花がほこる夜のことである。世田谷区せたがやく桜町さくらちょうきょかまえる我が家では、今まさに小さな戦争が起きようとしていた。そういうとき、父と母は必ず足並みをそろえた兵隊のように二階へと上がっていく。みにくく争い合う姿をさらしたくはないのであろう。僕はそれまで漫然まんぜんと見ていたテレビの電源を消して耳をすませた。

 しばらくの沈黙ののち、母の低く唸る声が一階のリビングルームにかすかに響いた。まるで空襲くうしゅう警報けいほうだな、と僕はソファーに浅く腰掛けながら思った。

 ウウー、ウウー、ウウー、という不思議にも響く母のうらめしそうなうなごえの後にやってくることはいつも決まっていた。焼夷弾しょういだんだ。二階から何かを激しく床に叩きつける音が聞こえてきた。きっと父母ふぼのいずれかが灰皿でも投げたのだろう。

 僕はこれから後に、二階でひろげられるだろう父母ふぼいという戦争から逃れるために、そそくさと座敷ざしきへと駆け込んだ。そこにはよわい八十歳を迎える祖母そぼが僕をかくまうようにして待っていた。僕はすっかり背中の曲がった小さな老婆ろうばに、頭を下げると、イグサの香りも新しい畳の上に胡坐あぐらをかいた。二階での行われているのが戦争だとすると、祖母そぼがいる座敷ざしきは僕にとっての防空ぼうくうごうであった。いくら仲の悪い夫婦といえども、祖母そぼの「薄いヴェールに包まれている」とでもいったような不思議な無関心にはかなわないとみえる。

 父が浮気をしたとき、母が勝手に高価な買い物をしたとき、そして僕が定職にもかずにブラブラとその日暮らしをしているとき――、父母ふぼことあるごとに理由を見繕みつくろっては、必ずといっていいほどケンカをかえしてきた。しかし、祖母そぼはいつだって素知そしらぬかお白湯さゆすすっていた。

「また始まったね、ばあちゃん」

「そうさね」

 祖母そぼはいつものように大人らしく座布団ざぶとんの上に正座せいざをしている。その姿を見るたびに、夫婦のやかましいいさかいの声がどこかとおのくような気がする。僕はハクモクレンの花がふらりふらりと散っていくのを、和室の明り取り用の小さな窓越しに眺めながらつぶやいた。

「今度のケンカは何が原因かな。やっぱり俺が定職にもかずにふらふらしているせいかな」

 自覚はしているつもりであった。しかし、今まさに行われている夫婦の戦争の発端ほったんが自分にあると認めるということは、あまりにも情けなかった。僕は祖母そぼの顔色をうかがった。夫婦ゲンカという戦争の渦中かちゅうにあって、祖母そぼという最後のとりでを――防空ぼうくうごうを追い出されることが何よりも怖かった。

「お前のせいじゃないよ。そりゃね、お前が職にいて落ち着いてくれたら今夜のいさかいは収まるさね。でもね、人はいつだって多かれ少なかれ、理由を見つけては小さな戦争をかえしているものさ。あたしゃ、本物の戦争を知っているけれど、争いのまったくない時代なんて知らないよ」

 祖母そぼの丸まった背中に後光ごこうが差し、いつの間にか二階から鳴り響く物音の一切が消えたような気がした。張りつめていた糸がぷつんと音を立てて切れたようであった。

 祖母そぼという優しく包み込むような防空ぼうくうごうの中で、僕は自分のいたらなさやなさけなさをめずにはいられなかった。

 もう少し強い心を持っていたら、僕が職を退しりぞくことはなかったに違いない。僕はもう二十八歳をむかえようとしている。父母ふぼまごを、祖母そぼにはひまごを見せてあげることだってできていたかもしれない。祖母そぼに残された時間はそう長くはないだろう。自分がもっと強ければ、全てが上手くまとまっていたのかもしれないのである。これまで目をらし続けていたが、今夜の戦争がなによりも、僕に現実を突きつけているような気がしてならなかった。それでも祖母そぼは笑顔で僕を受け入れてくれた。僕という矮小わいしょうで、非力ひりきな存在を確かに認めてくれたことがせめてもの救いであった。僕は祖母そぼに頭を下げ、涙を流しながら静かに嗚咽おえつした。

「なにを泣いてるのさね。可愛かわいい顔が台無だいなしになってまうよ。さあ、顔を上げて。いつだってばあちゃんはお前の味方だよ」

 祖母そぼの優しい声が頭の上で聞こえた。僕はますますこうべれるほかなかった。その一言ひとこと一言ひとことが胸にるようで、せつなくてたまらなかった。僕は畳にすようにして、ひたすら泣きながら謝ることしかできなかった。

「ごめんよ、ごめんよ、ばあちゃん」

 ハクモクレンの命は短い。きっと今宵こよいの戦争が終わる頃には全て散り散りになって、去ってしまうだろう。父の小さな悲鳴が二階から聞こえたような気がした。どうやら今夜は母が戦争に勝ったようであった。

                       

                                    (了)

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