落第生万歳

胤田一成

Giraffe

叔父おじちゃん見て、オチンチン」

 おいが私のそでを引いて、キリンの下腹部から伸び出たペニスを指さしてそう言った。叔父おじおいの関係が遠慮や羞恥といったものを取り払うのだろう。おいは無邪気な顔で私にそう言った。

 恋人も職も失った私は妹の息子を連れて、都内某所の動物園にやって来ている。社会的地位を失った代わりに精神疾患を抱えた私を妹は寛大に受け止めてくれた。その心ばかりの埋め合わせとして、今年九歳になる小さなおい面倒めんどうを何かと見てくれと頼まれ、都内の動物園に足を運んだという次第しだいである。

 うららかな春の日差しが動物園を闊歩かっぽする人々や、おりに込められた様々さまざまな生き物たちを照らす。午後の動物園の長閑のどかな一時のことである。私達はキリンが閉じ込められたおりの前を通り、大型動物の交配こうはいという珍しい瞬間に立ち寄った。私はいまだ小さいおいのことを思い、すぐにこの場を離れるべきかもしれないとも考えた。しかし、自分より何倍も大きい動物の迫力に興奮しているおいっ子の様子を見て、しばらくこの場に留まろうと決めた。全く、子どもというものは探求たんきゅうしんかたまりである。おいはこれから行われるだろう交尾こうびの瞬間を、いやらしさの欠片かけらもない純真な眼差まなざしで見詰みつめている――。一方で私はキリンという動物の不思議な形について、ぼうっとした頭で観察するのが精いっぱいであった。

 いったい、キリンという動物はなんと不思議な生き物であろう。第一に首が長い。首が長いだけではなく脚も異様いように長い。挙句あげくてにはあの蜘蛛くもったような色と、まるで役に立ちそうにもない二本の角。自然界で生き延びていくにはあまりに違和いわを抱え込み過ぎた動物に見える。それはまるで今の私の頭の中を体現しているかのような、一匹のひ弱な獣であった。それが今、目の前で一匹のめすめぐって懸命けんめいになって交尾こうびせまろうとしている。

 私は夢中になって、動物の交尾こうびの瞬間を見守っているおいっ子のことをしばらく意識の外にやって、かつて私の恋人のであった尚子なおこのことを思い出せずにはいられなかった。

 尚子なおこ――。彼女は、切り絵をあべこべに貼り付けたような違和感だらけの私を、ある日、突然見放した。私は必死になって彼女をめようとしたが、それもかなわなかった。彼女がどうして突然とつぜんになって私を見限みかぎったのか、当時の私にはまだ何も分からなかった。しかし、それもこうやっておいを連れて動物園にやって来れるくらいの精神的な余裕ができた今となっては、彼女の心の動きが、何とはなしに分かるような気がする。

 とどのつまり――私はキリンだったのだ。遠く彼方かなたを見やりすぎて伸びた首、同僚や上司に追いつこうと伸ばした脚、虚偽きょぎ追従ついしょうに塗り固められて統一性とういつせいを欠いた蜘蛛くも巣状すじょう色彩しきさい、そして、バラバラに崩壊ほうかいした自分自身を制御せいぎょしようと生やした二本の棒のような角。――私はキリン。

 そして今、尚子なおこという名の一人の女性への記憶を追い、そこにはいない存在に一所懸命いっしょけんめいになって求愛きゅうあいし、とどめようとしているキリン。私は彼女の何を知っていたのだろうか。

「あっ」

 私の着ているコートのすそを握っていたおいが、小さく息を飲んだ。

 キリンの交尾こうびは五秒以内に終焉しゅうえんむかえる。目前もくぜんのキリンがもう一匹のキリンにまたがったと思ったら、すでにそのせつなく猛烈もうれつな愛の時間は終わっていた。

 その時、私の中でさかっていた火炎も消えた。たけり続けていた彼女への未練みれん、もう一度だけ彼女をめたいという肉体への欲望。そういった心にまり、泥のようにとどこおっていたものが急激にめて、流れていくのを胸の内で感じた。

 尚子なおこ――、君が夜毎よごと枕元まくらもとで私にささやいた愛の言葉は、きっと嘘ではなかったのだろう。少なくとも私はそう信じていたい。しかし、君への思い出は少しずつ、失われてていく。キリンのつか逢瀬おうせのように、これからもよみがえっては失われ、よみがえっては失われていくのだろう。そして、最後にはひと絞りもできないほどにててしまうのだろう。私はそれが残念でならない。しかし、それは必要なことなのだろう。私が〈ヒト〉に戻る日のためにも、それは必要なことなのだろう。

「さあ、行こうか」

 キリンは小さな〈ヒト〉の子の肩をしっかりとき、ほんの少し、鼻をすすると、次の獣(けもの)を見に行くべく誘いざなっていった。



                                                      (了)

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