第9話 憂さ晴らしの暇つぶし

「はぁ……」


 将棋部の部室を出て扉を閉めると、思ったよりも大きなため息が漏れて、私はきゅっと背筋を伸ばした。部室の中からは、まだ対局時計の電子音が聞こえてくる。聞き慣れていたその音も、今はなんだか耳障りに感じられて、私は扉を背にとぼとぼと歩き出した。

 別に、駒谷くんに負けるのは今日が初めてではない。今日の対局も、部内大会の優勝決定戦ではあったけど、たかが部内大会、負けたから何という訳ではない。それでも、負け方っていうのはある。対局に集中できなくて、不注意での反則負けっていうのは、あまりにもあっけないし駒谷くんにも申し訳ない。部室に居たくないと思ったのは、今日が初めてだった。

 

 階段を下りながらスマホを取り出す。時計は16時45分を示していた。時計を見ていなかったけれど、いつもより少し早い時間に出てきてしまった。琴乃と由貴はまだ部活だろうか。そんなことを考えていると、私たち3人のグループにメッセージが届いていることに気づいた。


『今日練習終わるの遅くなりそうだから2人は先帰ってて!』

『了解。遅くなるなら由貴も気をつけて帰りなよ』


 どうやら対局中に送られていたらしい。遅れて私はグループに親指を立てたスタンプを送った。3人とも部活がある水曜日は、17時半に校舎の昇降口に集まって一緒に帰るというのが常だったけれど、陸上部の由貴は練習時間が伸びるのもよくあることだった。実際、今日は試験前最後の部活の日なのだから尚更だ。

 そんなこんなでいつもの集合場所である昇降口には到着したけれど、案の定、琴乃の姿は見えなかった。合唱部の練習は時間でがちがちに縛られているというのはよく聞いているから、時間通りの17時半まで琴乃が来ることはないだろう。あと40分はここでひとりで待つしかない。


「どうしようかな……」


 40分という時間は何をするにも微妙な時間だ。図書室に行って昼寝をするにしても、時間通りに起きてこられる自信がない。かといってここでスマホをいじって待っていても、やることがなくて暇をするのは目に見えている。今日の対局の反省も、今はあまりする気にはなれない。じゃあ、どうする?

 考えるために目を瞑ると、また瞼の裏には茅原さんが映っていた。昨日私に『ひどいこと』をした人、今日私の集中を削いだ元凶の人。一度大きくトクンと心臓から音が鳴ったような気がした。


「……そうだ」


 ちょうどいい暇つぶしを思いついて、私は靴を履き替えて外に出た。冷たく澄んだ空気が体を包んで、すっかりオレンジ色になった太陽の光が私の眼鏡を照らした。目指すはスポーツ強豪校山之上高校の誇る総合体育館、その1階には温水の25メートルプールが備わっている。そこに水泳部の茅原さんはいるはずだ。

 茅原さんが泳ぐ姿を一度は見てみたいと思っていた。文武両道な茅原さんのエピソードとして、中学時代にインターハイに出場したという噂を小耳にはさんだことがあったからだ。見に行くなら、せっかく知り合えたこのタイミングだろう。……それに、けがをさせてしまった手前、茅原さんがちゃんと練習できているのかという一抹の不安もある。色々なことを考えながら、私は小走りで体育館へと続く道を進んだ。



 体育館に続く渡り廊下を通り、玄関で体育館履きに履き替える。坂の上から直通しているこの玄関口は体育館の3階に位置しており、プールが見える場所までは階段を下りる必要がある。体育館の中に入ると、むわっとする独特な匂いと共に、スパイクのキュッと鳴る音が聞こえてきた。

 山之上高校の総合体育館は、室内プールのほかにも、全国一の体育館としてテレビでたびたび紹介されるくらい、本当に色々な設備が整っている。バレーボールコート3面が優に入る吹き抜けのメインアリーナに、バスケットコート用のサブアリーナ、たくさんの卓球台が並べられた卓球場に、剣道場・柔道場・ボクシングリングが別にある。屋上には弓道場とアーチェリー場が併設されていて、地下には変わり種としてボウリングレーンやダーツ・ビリヤード台まである。こういった充実した環境が、スポーツ強豪校としての山之上高校を作り上げている。

 そんな充実した体育館だけれど、文化部の私は体育の授業でたまに使うくらいで、あまりその恩恵を受けたことはない。2学期の体育は陸上競技が中心だから、体育館に入るのも久しぶりだ。若干の目新しさを覚えながら、私は階段を下りていった。


「ここから見えるんだっけ」


 2階に下りて奥へ進んだ先、非常用品が置いてある物置のような通路の小窓からプールを見下ろすことができる。そんな話を由貴からだったか聞いたことがあった。水泳部の練習を見るだけならプールサイドに行くこともできたけれど、わざわざここを選んだのは茅原さんに見つかりたくなかったから。私との関係を隠そうとしてた茅原さんの迷惑にはなりたくなかった。

 窓は少し高い位置にあるけれど、おあつらえ向きに腰掛けられそうな荷物置き場がある。


「よっ、と……」


 少し行儀が悪いのは承知の上で、私はその台によじ登り、窓に手をついて下を見る。窓の向こうのプールは、8レーン全体を使って水泳部の練習が行われていた。プールサイドにも、プールの中にも、男女入り混じりでたくさんの人がいる。けれど、どうしてだろうか、私の目はすぐに茅原さんの姿を捉えることができた。


「あっ……」


 一番奥のレーンの飛び込み台の順番待ちで集中した顔を見せる競泳水着姿の茅原さん、窓ガラス越しにわかるその可憐さに、呆けた声を出してしまった。その姿を初めて見たわけではないはずだ。少なくとも、1学期の体育の授業では水泳の授業があった。その時はこんなにも気になることはなかったのに。

 遠くに見える茅原さんの姿に胸が高鳴って、なんだか体がそわそわしてしまう。昨日から、私はちょっと変だと思う。授業を受けていても、将棋を指していても、茅原さんのことが頭から離れなかった。こんなことは今まであまりなかった。ガラスの向こうのプールのぬくもりが移ったように、体がぽっと温かくなるのを感じた。


 しばらくして、茅原さんの番になった。赤茶の髪を綺麗にキャップに隠してゴーグルをつけ、茅原さんはぐるぐると肩を回しながら飛び込み台に上る。痛めた肩はもう大丈夫そうだ、と少しほっとする。


「がんばれ……」


 スタートの姿勢をする茅原さんにエールを送ると同時に、茅原さんの横にいたコーチのような人の手が振り下ろされる。その瞬間、茅原さんは水中に飛び込んだ。


「……はやっ」

 

 茅原さんの泳ぎは圧巻だった。力強く水をかき、水面を滑るように進んでいく。プールサイドで並走するコーチはもはや小走りをしている。普段クラスの中心で笑顔を振りまいている茅原さんとも、昨日私の前で見せた少し砕けた茅原さんともまた違う、競泳競技者としての凛々しい茅原さんがそこにいた。私の目はその姿を焼き付けようと、瞬きすらも許さずに追っていた。

 25メートル進むのはあっという間だった。対岸に手をついた茅原さんは、水面に顔を出してコーチの方を向いた。コーチは手に持ったストップウォッチを見つめる。それから、茅原さんの方を見た。コーチの顔は、険しく歪んでいるように見えた。


 もしかしたら。

 悔しそうに下唇を噛む茅原さんを見ていると、頭の中に不穏な思考が浮かんできて、さっきまで温まっていた体の芯がすぅっと冷たくなっていくのを感じた。

 もしかしたら、茅原さんは肩の痛みがまだ残っていて、それが今響いているのかもしれない。そうでなくても、昨日練習ができなかったブランクのせいで、上手くパフォーマンスが出せていないのかもしれない。


 大丈夫、だよね。心で念じながら茅原さんを見つめる。しばらくしてコーチの話を聞き終えた茅原さんは、下唇を噛んだまま、少しだけ悲しそうな目でさっきまで泳いでいたプールの方を向いていた。

 また自分勝手と言われてしまうかもしれないけれど、今すぐ隣に来て、私は大丈夫と言ってほしい。そうじゃないと、私の頭の中で渦巻いているこのもやもやとした不安が、また重く心に沈殿して、しばらく消えてくれそうになかった。


 ――ピロン。


 不意にカバンの中からスマホの通知音が鳴った。いつの間にかマナーモードが外れていたらしい。カバンからスマホを取り出して画面をつけると、時間は17時28分を示していた。


「やばっ!」


 夢中になっていて、琴乃との集合時間を忘れていた。慌ててカバンを肩にかけて台から飛び降りる。体育館から校舎の昇降口までは意外と距離があって、階段も何階分か上がらなきゃいけないから、集合に遅れてしまう。


 悲しい目をした茅原さんの姿が頭に浮かんで後ろ髪をひかれながら、私は体育館の出口に向かって早歩きをした。

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