第8話 茅原さんのせい

 将棋部の部室の床に敷かれた畳の上で、私は正座をして目の前の盤面をじっくりと見る。盤を挟んで向こう側には、同級生の駒谷こまやくんが、私と同じような姿勢で苦しそうな表情を浮かべながら盤上の駒を見つめていた。


 ――残り、1分です。


 対局時計が急かすように残り時間を告げると、持ち時間が無くなった駒谷くんはより一段と顔をゆがめて前のめりになった。

 

 10月14日。水曜日は毎週授業が少し早く終わって、部活動が始まる時間も少し早くなるから、部活動を頑張っている人にとっては週1回のうれしい日だ。特に今日は中間試験前最後の水曜日、部活動の中断前最後の日で、朝からみんな少し異様な雰囲気で授業を受けていた。

 そんな区切りのいい日に、私の所属する将棋部では、夏休み明けから開催していた学年別リーグ戦の最終局が行われている。いつもは賑やかな部室も、今日ばかりはみんな目の前の将棋盤に集中していて、手を指す際のパチンという音とデジタル対局時計の電子音だけが響いていた。


 ――30秒。


 対局時計が無機質に時間の経過を告げる。駒谷くんは前のめりの姿勢のまま、まだ考えている様子でうんうんと唸っていた。

 私の読みでは、形勢は若干私が有利だ。自陣に竜は入り込まれているけれど、上手く抑え込めているから駒谷くんは手が狭い様子で、対する私は敵陣に成り込んだ馬が攻防に効いていて陣形が固い上に、手が渡されればただで銀を取れるという圧を押し付けることが出来ている。けれどまだ決定的な差というのは生まれていなくて、予断を許さない展開だった。


 私が将棋を始めたのは5歳からだ。運動神経が悪かった私にとって、将棋というボードゲームは周りと土俵が同じというだけでとても面白く感じられた。中学生になって身長が伸び悩み、周りとの体格差が決定的になっても、将棋というスポーツではお構いなしに戦えるためにモチベーションがうなぎ登りで、メキメキと実力を伸ばしていった。

 結果的に、中学3年で県大会4位に入賞するほどに上達し、この山之上高校に入学してからも鳴り物入りで将棋部に入部した。同級生に私以外女子はいないけれど、実力は部内でもトップクラスで、ここまでリーグ戦も無敗を誇っている。


 ――50秒。1、2、3、……。


 ついに対局時計がカウントを始める。私と同じくここまでリーグ戦無敗の駒谷くんは頭を下げて深く考えていたが、はっと大きく息を吸って顔を上げた。その顔には少しだけ自信を取り戻したような表情がある。駒谷くんはその表情のまま、駒台の香車を持ってパチンと音を立てて盤上に打ち、対局時計を考慮時間ギリギリで力強くたたいた。


「あっ」


 思わず声が出る。駒谷くんは自分の銀を捨てて、今まで攻めていた方向とは逆を狙う香車を打ってきた。そしてその香車は守りが手薄な王様の頭を狙っている。その諸刃の剣な攻めは完全に盲点だった。まだ香車だけでは脅威は少ないが、駒台には桂馬や角もあって、集中攻撃をされると陣形はあまり持ちそうにない。

 腕を組んで左手を口元に持ってくる。目を瞑ると、頭の中に目の前のものと同じ盤面が浮かんできた。大丈夫、まだ有利は活かせるはず。頭の中で駒を動かして、落ち着いて今後の手を読む。


 ――残り、5分です。


 こんなときのために持ち時間はたくさん残していた。さて、今考えるのは、この香車を無視して攻めるべきか、念の為守っておくべきか。ここで香車に構っても、後から次々駒を足されて攻め手に困りそうだ。かといって無視をするのは結構危ない橋を渡ることになる。

 一旦目を開けて、ふぅ、と小さく息をつき、首を左右にひねってリラックスをする。どうやら他は終局したところも出てきたようで、全勝対決を見ようと、私たちの盤の周りに野次馬ができていた。まぁ、人の目を気にしたところで、いい手が浮かぶ訳でもない。私はもう一度目を瞑って、頭の中の盤面を動かし始めた。


 馬を引くのはダメだな。そんなふうに、読みを進めていた時だった。


「っ……」

 

 微かに冷たい何かが右頬を伝わって、私は小さく息が漏れた。驚いて目を開けるけれど、見える風景は何も変わっていないし、右頬が濡れているわけでもない。気のせいだろうか、そう思ってまた目を瞑って読みを続ける。けれど少しすると、また右頬に冷たい感触が伝わった。

 頭の中の盤面がゆらゆらと揺れる。集中できない。その感触を振り払うように首を左右に振るけれど、少しするとまた戻ってきて、更にはだんだんとその冷たさがはっきりとしてくる。その感触は身に覚えがあった。


『そのまま』


 私の思考を止めるように声が響く。茅原さんの声だ。そう認識してしまうと、もう頭の中の盤面は形を保てなくなって、代わりに昨日いた茅原さんの部屋が朧気に浮かんできた。冷たい指の感触が、右頬を上がって右耳をなぞり、昨日の軌跡を辿り始める。


『かわいい』


 今度ははっきりと優しい声が聞こえて、正座をしている太ももの上の方が微かに暖かくなる。冷たい感触は顎の先を通過して、左頬へと移っていた。

 昨日人生で初めてやった膝枕は、相当な衝撃を持って私の意識に刻み付けられていたらしい。私はただ正座をして目を瞑っているだけなのに、茅原さんの頭の重みも、茅原さんの部屋の匂いも、茅原さんの手や指の感触も、まるで今すべてを再現しているかのように、私の体が感覚を作り出していた。

 厄介なのは、その感覚は決して悪いものではないということだ。火照った顔をなぞる指の感触は赤子を撫でるように優しい。くすぐったいけれど、もっとされていたいとまで思ってしまう。

 一方で、頭の片隅には今ここが将棋部の部室であることを叫ぶ自分もいる。今私は対局中で、難しい局面であるということはわかっている。けれど、この心地よさはそうした真面目な私をも溶かしてしまう。困惑と恥ずかしさが込み上げてきて、私はたまった唾を飲んだ。

 

 ――残り、1分です。


 対局時計の無機質な読み上げに、熱くなった体がビクリと跳ねた。慌てて目を開けて表示を見ると、持ち時間はいつの間にか無くなっている。正面の駒谷くんは先の展開を読んでいるのか盤面に目を向けているけれど、周りの野次馬はおかしな反応をしている私を不思議そうに見つめていた。

 どうしよう。読みはまだざっくりとしか進んでいない。それも、これをしたらダメ、という失敗ルートしか考えていなかった。急いで続きを読もうと目を閉じるけれど、焦りからか頭の中の盤面はぐにゃりと歪んだままで、まともに読みを進めることが出来ない。


 ――30秒。


 その間にも時計はどんどんと進んでいく。こうなったら仕方ない、頭の中で読みを進めるのを諦めて、目の前の盤面を凝視する。さっきの駒谷くんのように、自然と体勢は前のめりになった。

 目を開けていると、盤面以外の周りの状況が気になって仕方がない。5分前から野次馬の数はかなり増えていて、ああでもないこうでもないとそれぞれが手を動かしている様子が見える。声を出してはいけないから部室の中は静かであるけれど、たくさんの男たちの視線がここに集まっているのを見せられて、集中なんて出来っこなかった。


 ――50秒。1、2、3、……。


 ついにカウントが始まる。改めて考えた手もことごとく失敗が見えていて、未だに有利を活かせる最善の手は見えてこない。けれど、時間はもう切羽詰まっている。あとはもう直感に任せるしかなかった。


 ――5、6、……。


 1つだけ、可能性を感じる手が一瞬見えた。防御を捨てた超攻撃的な手だ。私は2本の指で駒台の歩を持つ。


 ――7、8、……。


 それを相手の5筋の歩の頭に打って、対局時計をたたく。ギリギリ間に合った。そう思って駒谷くんを見ると、彼はあっけにとられたような顔をしていた。それどころか、周りに集まる野次馬も読みを進める手を止めて、しんと静まり返る。


「それ…………」


 野次馬の1人がうわ言のように呟いて、はっと口を閉ざす。対局中のアドバイスはご法度だ。けれど、その言葉によって、私は盤面に何か強い違和感を覚えた。何か取り返しのつかない大きなミスをしたような……!


「…………二歩、ですね」


 私がその違和感に気づくと同時に、駒谷くんが重い口を割った。二歩、それは同じ筋に歩を2枚打ってはいけないという、将棋をたしなむ人なら誰もが知っている初歩的な反則だ。飛車が成り込んできた時に自陣の底に歩を打ったのが、すっかり頭から抜け落ちていた。


「……負けました」


 駒台に右手を置いて、頭を下げて礼をする。瞬間、ざわつく野次馬の言葉から逃げたくて目を瞑ると、頭の中に悪戯っぽく笑う茅原さんの顔が浮かんできた。

 全部、茅原さんのせいだ。今日の負けは、茅原さんが私に『ひどいこと』をしたせいだ。そう心の中で悪態をついた。

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