第7話のあと ひとりの部屋

『誕生日おめでとう、杏奈』

「あ、うん、ありがとう」

『……本当は昨日伝えたかったんだけどな』


 シーリングライトが白く照らす部屋の中、私はひとり、食卓の椅子に座ってスマホを耳に当てる。電話の相手はお父さん。電話をしたいだなんて珍しいと思ったけど、そういえば私、昨日誕生日だったっけ。


『昨日は、何かあったのか?』

「うん、まぁ、ちょっと気分悪くて。あ、でももう良くなったから」

『そうか、台風で心配だったが、なんともないならいいんだ』


 別に嘘はついていない。昨日の夜も電話はかかってきていたけれど、色々あって電話に応じる気分になんてなれなかった。


「そっちは元気?」

『そうだな、まあ、やっと慣れてきたよ』

「私は、まだちょっと慣れないかな」


 親元を離れて一人暮らしを始めてからもう半年になる。すべての家事を自分でやらなきゃいけない、というのは、高校生である私にとっては結構な重労働で、日に日に面倒になっていく。そんな苦労話をしてやると、電話の向こうでお父さんは、まあそんなもんだと笑った。

 不思議なものだ。一緒に暮らしていた頃はギクシャクしていて、一言も話してやるもんか、なんてお互い意地を張っていた。けれどいざ離れてしばらく暮らしてみると、積もる話というのはある。意外にも口はずっと回り続けていて、お父さんはそんな私の話を楽しそうな頷きをしながら聞いていた。


『……じゃあ、お父さんは仕事に戻るから』

「相変わらず、忙しいんだね」


 そうして話すこと20分、お父さんは渋々というふうに休憩時間の終わりを告げる。積もる話はまだ3割くらいしか消費してないんだけど。


『プレゼント、何が欲しいか聞いとけばよかったな』

「別にいいよ、口座から勝手に使うし」

『そうか、程々にな』

「じゃあね」


 別れの言葉が言い終わらないうちに電話はプツリと切れて、私は静けさがピンと張りつめた広い部屋にひとり取り残される。はぁ、と大きくついたため息は食卓に反射して、何もなかったかのようにすぐに消えた。


「着替えなきゃ」


 帰宅してからもう長いこと経っているのに、まだ制服のままでいた自分に気づいて立ち上がる。奥の部屋に入ると、いつもとは違う匂いが微かに残っていた。さっきまでずっと、すぐ近くにあった丸井さんの匂いだ。胸にざわりとしたノイズがかかる。着替えようというやる気が少し失せて、ベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。


「……はぁ」


 部屋の隅にある勉強机の上には、昨日友達から貰った誕生日プレゼントの包みがいくつも並んでいる。そのどれもがプレゼント用のラッピングがきれいに施されたままで、それを開ける気にはなれなかった。中身はわからないけれど、私が本当に好きなものでも、今一番欲しいものでもないだろう。当然だ、今の友達には自分のことについて本音で話したことなんてないんだから。

 友達には自分のことをあまり知られたくない。遠くの中学出身であることも、一人暮らしであることも、知られたくないって思ってることだって知られたくない。知られたら、幻滅されるかもしれないから。何がきっかけで人が離れるかわからないから。


 その点、丸井さんは都合がよかった。今まであまり話したことがなくて、いつも教室ではビクビクしている弱気な性格。友達も少なそうだし、ついでに昨日の一件で私に負い目を感じている。元々なかった人間関係なら、すぐ壊してしまっても自分は傷つかない。そう考えて、私は昨日、丸井さんと一方的な取引をした。今日だって、いつものグループでの会話が酷くつまらなく感じたから、憂さ晴らしをしようと丸井さんを呼び出したつもりだった。

 なのに、なんで私は今日あんなに丸井さんに甘えてしまったのだろう。家に来てなんて提案して、意地悪して、いなくなりそうになったら捕まえて。家に入れたら肩を冷やしてもらって、おまけに膝枕まで。


「……っ」


 さっきは柄にもないことをした。急に顔が熱くなって、丸机に置いていたびしょ濡れの氷嚢を頬に乗せる。どうやら私はおかしくなってしまったみたいだ。昨日階段から落ちてから、感情の自制があまり効かなくなっている。いや、正確には、……昨日開かずの扉の前で、偶然沙織に出くわしてからか。


「……やめよう」


 氷嚢を丸机に投げ捨てて、かわりに顔を枕にうずめる。黒い感情がぐるぐると渦巻く心の中を無理やりに沈める。そうしないと、また昔を思い出してしまいそうで。

 気を紛らわせたくてスマホを開くと、画面には膝の上から撮った丸井さんの顔が映っていた。照れたように顔を赤くして目を逸らしているけれど、下からのアングルで見るとその顔は凛々しく感じられた。眼鏡を取った丸井さんの顔は、触るととても柔らかくて温かくて懐かしい感じで。そんな感触を思い出すくらいには、私は丸井さんに入れ込んでいるようだった。


 部屋に微かに残っていた丸井さんの匂いはもうほとんど残っていない。朝から変わったことといえば、クローゼットから使わないカーディガンが1枚無くなっていることくらい。私の部屋は、いつも通り孤独と静寂が空気を支配していた。


「つまんないなぁ」


 やっぱり、部屋に入れたのは間違いだったかもしれない。お父さんからの電話も相まって、ようやく慣れてきた一人暮らしが、今日はひどく寂しく感じられた。肩の痛みは消えてくれたけど、今度はまた別のところが痛んでくる。その痛みには氷嚢は対処してくれないだろう。

 ああ、もう。こんなのは、昨日今日といつもと違う生活をしてたから、いつも通りのことがおかしくなっちゃうんだ。肩が痛くて部活の練習に参加出来ていなかったから、気持ちの発散ができていないんだ。明日からまたちゃんと練習に参加して、ちょっとずついつもを取り戻せばいい。


 時間はまだ20時、制服は結局まだ着たままで、夜ご飯だってまだ食べてない。けれど、急速にきた眠気に抗う気は更々なくて、うつ伏せのまままぶたを閉じる。氷嚢のせいか、秋のせいか、私ひとりの部屋は少し寒いくらいで、さっきまで丸井さんの膝枕の温もりを受けていた私の後頭部をゆっくりと冷やした。

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