第7話 暖かくて冷たい

 私の認識が間違ってなければ、膝枕は正座をして行うのが正しいと思っていたけれど、実はそうでもないんじゃないか、なんて今は思う。正座をしているから、太ももは今そんなに柔らかくないだろうし、枕にしては高すぎる気もする。それでも茅原さんは、私の太ももの上に頭だけを乗せ、私の体に背を向け左肩が天井へと向くようにして、スマホにせわしなく文字を打ち込んでいた。

 この体勢になってから、あっという間に10分が経とうとしている。茅原さんはスマホに夢中でそれほど私のことを気にしていなさそうだけど、私はまだ茅原さんのことで頭がいっぱいになってしまっていて、ふわふわとした気分が抜け切れないでいた。


 いつもは見上げないと見ることのできない茅原さんの頭が、今はスカート越しに私の太ももの上にある。密着しているからか、女の子らしいふわっとした匂いが私を包んでいる。視界のぼやけも相まって、なんだか夢の中にいるような気分だ。太ももに伝わってくる心地よい熱は、恥ずかしさに変わって私の体を暖めていて、その熱を逃がすように氷嚢に左手をそっと添えた。

 ビニール袋に氷と水を入れて簡易的に作られた氷嚢は薄いタオルに包まれているけれど、もうそのタオルはしばらく前から水を吸う能力を失っていて、結露が私の左手と茅原さんの肩を水浸しにしている。氷嚢を置き直す際、ブラウスの奥に茅原さんの肌が透けているのを、私は見ないふりをした。


「……体勢、つらくない?」

「ん……」


 時間が経つにつれてこの状況にいたたまれなくなってきて、今更そんなことを聞く。返ってくるのは生返事。声の振動が太ももに伝わって、茅原さんが近くにいるという事実を余計に意識させる。気を抜くと、私の空いている右手が茅原さんの赤茶の髪を触ってしまうような気がして、何を見るわけでもないけど、スマホを持って右手を埋めた。

 スマホの顔認証システムは、眼鏡を外していても問題なく私の顔と認識してロックを解除した。画面には、駅で会う前に連絡を取っていた茅原さんとのトーク画面が現れる。スクロールすると、すぐに最初のやり取りまで遡ることが出来た。


『これからよろしくね』


 昨日、茅原さんと連絡先を交換してこのメッセージが送られてきてから、まだ1日しかたっていない。それまでちゃんと話したこともなかった上に、階段から突き落とす、なんて出会いも最悪だった。なのに今、私はなぜか茅原さんの部屋にいて、茅原さんを膝枕している。

 相変わらず、茅原さんについては知らないことだらけだ。何が好きで、普段はどんなことをしてるのか。今は誰と連絡を取っていて、どんなことを話しているのか。……昨日はなんであんな場所にいて、水瀬さんと何があったのか。

 色々聞きたいことはあるけれど、茅原さんは私と世間話をする気はあまりないらしい。思えば、待ち合わせをしてからここに来る間、茅原さんから話しかけられることはなかったし、今だって私の方を向いてはくれない。

 でも茅原さんは私と話す気はないくせに、頬を抓ったり、腕を掴んだり、膝枕をしたりと物理的な距離はだいぶ近くて、その度に私の心を乱してくる。友達が多い人のコミュニケーションっていうのはこういうものなんだろうか、本当によくわからない。


 しばらく会話もなく、時計の音と、ぶつかる氷の音だけが聞こえていた静かな部屋に、突然大きな音楽が響いた。発信源は茅原さんのスマホだ。


「あっ、ごめん!」


 茅原さんは驚いたのか一瞬ビクッと大きく体を震わせて、慌ててスマホの音量を下げる。どうやらイヤホンをつけていないのを忘れていて、そのまま動画を開いてしまったようだ。


「……もしかして、『Fabri』の曲?」


 流れていた曲はなんとなく聞き覚えがあった。私が名前を出すと、茅原さんは少し固まってから、寝返りをうつように体をこちら側に倒した。さっきまでそっぽを向いていた茅原さんの顔が私の方を向く。左肩に乗せていた氷嚢が私のスカートの上に落ちた。


「……知ってるの?」


 茅原さんは不思議そうに言う。


「私も、その動画サイトよく見るから」


 行き場のなくなった氷嚢を丸机の上に避難させた後、余計なことをしないように手に持っていたスマホで、動画サイトのアプリを起動して茅原さんに見せると、茅原さんはふーん、と鼻を鳴らした。


「茅原さん、こういうの聞くの?」

「まぁ、たまにね」


 その動画サイトはサブカル系のコンテンツが集まっていて、いわゆるオタク文化を全面的に押し出しているようなところだ。茅原さんには無縁だと思っていたけれど。


「なんか、意外だね」

「そうかな、音楽は好きだし、前からこういうのも聞いてたけど」

「『Fabri』の曲、好きなの?」

「うーん、まぁ、そこそこ?」


 『Fabri』は半年前からその動画サイトに投稿を始めた新進気鋭のアーティストだ。サウンドは打ち込み丸出しで、歌はボーカルソフトウェアの機械音声、動画は黒背景に歌詞を出すというなんとも簡素なものだが、今時らしくないクラシカルなメロディと心情表現に富んだ歌詞が受けて、そのサイトでは期待の新星などと言われている。


「なんか曲調が懐かしくて、つい聞いちゃう、みたいな」

「確かに、曲は結構いいよね」

「曲は、って。丸井さんはあんまりな感じ?」

「いや、まあいい曲なんだけど。この人歌詞がいっつも悲恋とか、禁断の恋とか、別れとかで題材が暗いんだよね」

「まぁ、確かに。私は好きだけどね、そういう所も」


 初めて、茅原さんと語り合えた。そうか、茅原さんは『Fabri』の曲が好きなんだね。ランキングの上位から順に動画を流し見してた週末の私、ありがとう。茅原さんの好きなことを少し知ることが出来て、なんだかとても嬉しくなる。


「何笑ってんの」

「え、あぁ……」


 その嬉しさが顔に出ていたようで、茅原さんがまた不思議そうに言った。その声に下を向くと、茅原さんの整った綺麗な顔がすぐそこにあった。ちょうどその時、時間が止まったように部屋が静かになる。

 静寂の中、改めてこの状況を意識すると、また恥ずかしさがぶり返してくる。依然として、茅原さんは私に膝枕をされていて、今度は茅原さんはそっぽを向くのではなく、私の顔をじっと見つめている。ドクドクと自分の心臓の鼓動の音が聞こえてきて、思わず茅原さんの顔から目を離して丸机の上の氷嚢に視線を移した。瞬間。


 カシャッ。


 静かな部屋に今度はシャッター音が響く。驚いて下を見ると、茅原さんがスマホを構えていた。


「撮っちゃった」


 茅原さんがスマホの画面をこちらに向ける。そこには顔の赤い私が写っていた。猛烈な恥ずかしさが込み上げてきて、スマホを奪おうとしたけれど、茅原さんはすぐにスマホを私から遠ざけてけらけらと笑った。


「……なんで撮ったの?」

「初めて、膝枕された記念」

「何それ。……じゃあ私も」

「えっ、あっ!」


 カシャッ。


 もう一度、シャッター音が部屋に響く。撮った写真を確認すると、少し顔を赤くして驚いたような顔をする茅原さんが写っていた。


「もう、撮るならもうちょっと顔キメさせてよ」

「それはお互い様でしょ。……茅原さん、その写真、人に見せないでよ」

「まぁ、見せられないよね」

「そうだね」


 そう言い合って、2人揃ってふふっ、と笑う。私と茅原さんの秘密の関係に、またひとつ秘密が増えた。そんな気がして、少し顔が綻んだ。

 ひとしきり笑い終えると、また静寂が戻ってくる。下を見ると、茅原さんと目が合ったけれど、今度は込み上げる恥ずかしさも少なくて、お互いずっと目が合ったまま時計の針の音だけを聞いていた。ただ、静寂に慣れたわけではなくて、今度は何を話そうか、頭の中でぐるぐると考える。そんな時、唐突に茅原さんがさっきまで冷やしていた左肩をぐるりと動かした。


「あ、肩、大丈夫?」

「うん、お陰様でだいぶ良くなったみたい」

「良かった」

「ありがとう、丸井さん」


 お礼の言葉を口にした茅原さんは、左肩の動きを確かめるように左手を持ち上げる。その手はゆっくりと私に近づいてくる。


「……茅原さん?」

「そのまま」


 冷たい指の感触が、私の右頬を掠めた。もともと伸ばしていた背筋が痛いくらいにピンと張る。また、だ。駅でのことを思い出して、すぅ、と小さく息を吸った。

 頬に触れていた指はだんだんと上がっていって、目尻の凹んだ部分をなぞり、そのまま少し指を滑らせて右耳の耳たぶをつまんだ。


「かわいい」


 そう呟いた茅原さんの顔には、また悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。今日は『ひどいこと』はしない、そういう約束だったのに、今の茅原さんの顔は駅で私の顔を優しく触っていた時の顔そのままだ。何されるか分からない、そんな考えが渦巻いて、額に汗が滲んだ。

 茅原さんの冷たい指は顎の骨のラインに沿って下りていく。そのまま顎の頂点を通り過ぎると、今度は顔の左側を、爪の先でさわさわと上り始めた。


「ん、ふ……」


 スケートリンクを滑るように、茅原さんの爪の先が左頬を撫でる。さっき駅で抓られた表情筋が疼いて、我慢できずに変な声が漏れた。それが面白かったのか、茅原さんの爪はくるくると私の左頬を周回する。

 心臓はバクバクと大きな音を立てていて、顔がカイロのように熱くなるのを感じる。その表面を茅原さんの冷たい指が通るから、その道筋はいやが上にも意識に刻み付けられる。その上、茅原さんのフェザータッチのような優しい触り方に肌はどんどん敏感になっていって、漏れ出る息の量が少しずつ多くなっているのを感じた。


 ――ピピピッ、ピピピッ!


 突然、茅原さんのスマホからアラームが鳴る。私の太ももの上で妖しい笑みを浮かべていた茅原さんがはっと正気を取り戻して、上体をガバッと起こす。助かった、あのまま触られ続けてたら、何かがおかしくなってしまいそうで。荒くなった息を整えて私もスマホのロック画面を開くと、時計はもう19時を示していた。


「……ごめん、丸井さん。もうちょっとで親から電話かかってくるかも」

「そ、そっか」


 さっきまで太ももの上で楽しそうに私の肌の感覚を味わっていた茅原さんは、一転して申し訳なさそうに私の方を振り向く。茅原さんの顔を真っ直ぐ見られなくて、私はスマホに目を落とした。


「そろそろ、帰るかな」

「もう遅いしね。ほんとは、送ってあげたいんだけど」

「ま、まぁ、電話ならしょうがないよ。それに帰り道は多分覚えてるし」

「そっか」


 そんな会話をしながら、カバンを持って立ち上がり、少し乱れたスカートを直す。そして逃げるように部屋から出て玄関に向かった。


「あ、そうだ。丸井さん、ちょっと待って」


 部屋に1人残っていた茅原さんは何やらガサゴソと音を立てて、少しして玄関に駆けてきた。


「あげるよ、これ」


 茅原さんは手に持っていた白いコットンのカーディガンを私に手渡す。


「外、半袖じゃ寒そうだし、着ていって」

「え、あ、ありがとう。でも、あげるって……」

「私、多分もう着ないから。ほら、着てみな」


 言われるがままに袖を通すと、私の短い腕はすっぽりと包まれる。カーディガンの丈はスカートの先まであって、折りたたまないと腕が出ないほど袖も長い。明らかに、サイズが大きすぎた。


「ふ、ふふっ、似合ってるよ」

「…………絶対洗って返すから。でも、ありがと」


 ちんちくりんな私の姿を見て憎たらしく笑いをこぼす茅原さんを睨みながらお礼を言って、ローファーを履く。そのままドアを開けようとして、大事なものがまだないことに気づいた。


「あ、そうだ、眼鏡」

「忘れてると思った、はいこれ」


 茅原さんの手元には、私のお気に入りの丸眼鏡があった。それを受け取ってすぐに掛けると、2時間ぶりに輪郭の鮮明な世界が戻ってくる。


「お邪魔しました」

「丸井さん、また明日ね」


 ドアを開けて外に出ると、後ろから茅原さんの声。振り向いて茅原さんの顔を見ると、茅原さんは一瞬寂しそうな顔をして。


 ――バタンッ。


 鉄のドアは私と茅原さんの視線を遮って閉じた。外の冷たい空気は、1枚カーディガンを羽織っただけで少しマシに感じられる。


「なんか、ずるいな。茅原さんは」


 独り言をつぶやいて、すっかり陽の落ちた暗い道に出る。心臓はまだ少し普段よりは早い気がした。

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