第6話 冷やしてあげる

「上がって、まぁ何もないけど」

「……お邪魔します」


 眼鏡を人質にとられ、腕を掴まれてから約30分、引かれるがままについてきた私は茅原さんの家に到着して、ようやっと腕が茅原さんの冷たい手から解放された。

 眼鏡を外してこんな長い時間外を歩くなんてしたことがなかったから、急に閉鎖された空間に入ると遠近差で目が少しちかちかする。それに、部屋の中は外の空気に比べたらとても暖かくて、寒さにずっとさらされていた腕がかゆくなった。

 探るように壁に手をつきながら、脱いだローファーを揃えて部屋に向き直ると、ようやく目が慣れてきて視界のぼやけがマシになった。先に上がっていた茅原さんは、慣れた手つきで部屋の電気をつける。


「……広すぎない?」


 シーリングライトの明かりに照らされた部屋はおそらく8畳くらいはあろうダイニングキッチンだ。ほとんど物はなく殺風景だけど、部屋の中央には大きな食卓があって、奥の方には扉が2つ見える。2DK、一人暮らしをするにはとんでもなく大きい間取りだ。


「もともとは親戚が住んでたんだけど、海外転勤することになったみたいで」

「それで、一人で来たの?」

「実家が結構遠いからさ。あ、こっちで手洗って」


 茅原さんに連れられて部屋の右手の扉に入ると、正面に洗面台があった。洗面所にも左右に扉がある。おそらくそれぞれお風呂とトイレなのだろう。かなり贅沢な部屋だ。


「もしかして……茅原さんって結構お金持ち?」

「うーん。まぁ、家賃は親に払ってもらってるし生活費も十分もらってるから、お金には困ってないかな」

「ほぇー……」


 羨ましくて、思わず呆けた声が出てしまう。茅原さんは、何その声、とくすくす笑った。何だか恥ずかしくなって、その笑い声をかき消すように、少し高い洗面台の蛇口を強くひねった。

 手を洗いながら鏡に映った自分の顔を見る。裸眼で視界がぼやけているのを誤魔化すために、私の目は不自然なくらい大きく開かれていて、いつもに比べたら顔がちょっと歪んでいるようにも見える。学年一の美少女である茅原さんにこんな顔をずっと見られてたなんて、どうしようもないけどやっぱり恥ずかしい。なんとなく、鏡の中の自分から目をそらした。

 濡れた手をハンカチで拭いて部屋に戻る。改めて部屋を見回すと、茅原さんの姿が見当たらない。そのかわり、奥の扉が1つ開いていて。


「丸井さーん、こっちの部屋来てー」


 その奥から気だるげな声が聞こえてくる。食卓の上に置いていたカバンを持って、呼ばれるがままに部屋に入ると、ベッドを背にした茅原さんが、暗い茶色のラグマットの上の赤いクッションに座って足を延ばしていた。


「ここが私の部屋」


 殺風景だったダイニングキッチンとは違い、茅原さんの部屋は木目調の暖かい雰囲気が醸し出されていた。部屋の真ん中には木の丸机、左右の壁にはベッドと勉強用のデスクが配置されている。部屋の奥の窓は白く大きなカーテンで覆われていた。


「きれいな部屋だね」

「まぁ、あんまり物もないからね」


 茅原さんはトントンと自分の右の床をたたく。座れ、ということだろう。失礼します、と声に出して、茅原さんの方を向いて座り、カバンを自分の後ろに置いた。茅原さんはそんな私をまじまじと見つめていた。


「……正座なんだ」

「え? あぁ、うん、慣れてるから」

「やっぱ姿勢良いよね、丸井さん」

「まぁそれぐらいはしないと」

「…………目線同じ高さだもんね、これで」

「……むかつく、その言い方」


 にやりと口角をあげる茅原さんをキッと睨んでやる。茅原さんみたいな高身長でスタイルがいい女子は足が長いっていう印象が強いけれど、普通に座高も高い。今だって、ベッドに背をもたれかからせてクッションに座ってだらけている茅原さんは、正座で背筋を伸ばした私よりも少し背が高い。30cm以上の身長差というのは理不尽だ。


「で、何するの?」


 私が聞くと、茅原さんはんー、と小さな声を出す。


「……何もしない、かな」

「はぁ?」

「家に来てもらったけど、別に一緒にやりたいことがあるわけじゃないからなぁ」


 本当に何も思いつかないといった声で話す茅原さんに呆れて、はぁ、と大きなため息をついた。


「自分で家に連れ込んどいて、それでやることないって」

「だって寒そうだったし」

「……それなら普通に帰してくれれば良かったんだけど」

「それは、せっかく会いに来てもらったのに何もしないのももったいなくない?」

「だったら何か考えてよ」

「んー、そうだな……」


 しばらくの沈黙、部屋には掛け時計の針の進む音だけが響いている。人の部屋に入るなんてのは久しぶりだ。それでいてこんなに沈黙が続くとなんだか落ち着かなくて、ラグマットの毛の境目を指でなぞっていた。


「あ、そうだ」


 何かを思いついたのか、茅原さんは唐突に立ち上がる。ちょっと待ってて、と私を制止すると、茅原さんは部屋を出てダイニングへ向かった。耳を澄ますと、流れる水の音と冷凍庫を開ける音が聞こえてくる。


「お待たせ」


 少しして帰ってきた茅原さんは、タオルに包まれた氷嚢を持ってまた私の隣に座った。


「丸井さん、私の肩冷やしてくれない?」

「え?」


 突拍子もない提案に思わず聞き返す。


「肩?」

「まだ肩痛いの、言わなかったっけ」

「いや、言ってたけど……」

「明日からまた練習あるから、それまでにはもうちょっとマシな状態にしたいの」

「いや、それは分かるけど……私がやるの?」


 氷嚢を渡そうとしてくる手を制止しようとすると、茅原さんが私を見つめてくる。


「昨日は自分で冷やしてたんだけどさ、冷やしてる間何も出来ないから面倒くさくなっちゃって」

「……でもさ」

「つべこべ言わずにやって。丸井さんは私の道具なんだから、そういう契約でしょ」


 茅原さんはそう言って肩を乱暴に掴んで痛そうな表情を浮かべた。ずるい、茅原さんは自分の行動で私が罪悪感を覚えることに味を占めている。まぁ、もともと何でもするという契約だから、断ることなんて出来ないんだけど。

 渋々氷嚢を受け取って立ち上がる。茅原さんが痛めているのは左の肩だから、茅原さんの左の方に移動してまた座る。そして少し重みのある氷嚢を、両手でブラウス越しの茅原さんの左肩に押し付けた。


「ここら辺?」

「んー、いや、もうちょっと下」

「……ここ?」

「あー、うん、いい感じ」


 茅原さんは冷たいのか少し体を強張らせて、ふぅ、と小さく息を吐いた。


「じゃあ、そのまましばらくお願い」


 そう言って茅原さんは右手でスマホを操作し始めた。視界がぼやけていて画面はしっかりとは見えないけれど、茅原さんがSNSのアプリを開いてメッセージを送り始めたのは色で分かった。それを契機として、茅原さんのスマホが通知音を頻繁に発生させ始める。どうやら仲良しグループとのやり取りが始まったようだ。話相手なら隣にいるのにな、と心の中で呟いた。

 少しして、茅原さんがあまりに活発になったスマホの通知をオフにした頃、私はようやくさっきの茅原さんの面倒くさいという言葉を理解した。


「……あっ、ごめん」

「……もうちょっとしっかり押し付けて」


 氷嚢をつるりと滑らせた私に、茅原さんがクレームをつける。氷嚢を患部に押し付ける、たったそれだけのことなのに、この労働は思ったよりも大変だ。

 茅原さんの患部は肩の上というより、肩と腕の間、三角筋のあたりだ。その部分は普通にしていると地面と垂直になっているから、何かに乗せるのではなくて常に横から押し付ける必要がある。

 私も片手だけでそれをしようと思うのだけど、氷嚢の結露を吸って滑りやすくなった茅原さんの肩はするすると押し付ける力をよけていくから、どうしても両手で持つ必要がある。でも、ずっと持っていると私の手の先も冷たくなってきて耐えられなくなってしまうから、片手で持つことになってまた滑る。

 だんだんと私の腕も疲れてきたから、体の向きを変えて効率的に押し付けられるようにしようとするけれど、なかなか上手くいかない。そうこうしているうちにまた滑って、氷嚢を落としてしまった。


「下手だね、丸井さん」

「いや、これ結構きついかも」

「……何が一番きつい?」

「横から押し付けないといけないことかな。それで滑っちゃうからちょっと難しくて」

「そっかぁ、んー、そうだなぁ」


 落ちた氷嚢を拾って茅原さんは少し考えるそぶりをする。私はその間に結露を吸った茅原さんのブラウスをハンカチで少し拭いてやった。


「ん、そうだ、こっち来て」


 茅原さんはスマホを握ったままの右手でトントンと2回床をたたく。どうやら右に来てほしいらしい。立ち上がって茅原さんの右に、向かい合うようにして座る。


「あー、座るのそっち向きじゃなくて、机の方向いて」

「え、こう?」


 茅原さんの指示に従って座る向きを変える。ちょうど茅原さんと平行に座る形となった。


「で、もうちょっと離れて」

「こう?」

「そうそう、じゃあ、ちょっと腕どけて」


 茅原さんとの間にちょうど1人分くらいの隙間が出来たとき、茅原さんは私の左腕を後ろによけさせて――。


「うひゃぁっ!」


 茅原さんの頭が私の太ももの上に倒れてきた。思わず出したことがないような変な声が口から飛び出す。これって、いわゆる膝枕ってやつ。心臓の鼓動が一気に早くなった。膝枕なんてしてもらったこともなければ、したことなんて一切ない。


「これで、ちょっとはやりやすいかな」

「あ、え、うん……」


 当の茅原さん本人は気にする様子もなく、落ち着いた声を発しながら私に氷嚢を手渡してくる。あんなに冷たくてうっとうしかった氷嚢が、一瞬で上がった私の体の火照りを鎮める救世主のように感じられる。そのままその氷嚢の冷たさを堪能していると、茅原さんは催促するように体をもぞもぞと動かした。


「ちょ、ちょっと茅原さん、スカートしわになるよ」

「い、いいから、これで上手くいくか試してみて」


 あれ、どうやら照れているのは私だけではないのかもしれない。茅原さんの顔を見ることはできないけれど、赤茶の長い髪の間から見える左耳は、少しだけ赤くなっているような気がした。


「んっ……」


 氷嚢を茅原さんの肩に乗せてやると、茅原さんはやっぱり冷たかったのか少し艶っぽい声を漏らす。それを聞いて、また少し私の心臓が早くなった。


「ど、どうなの?」

「これなら、楽かも」

「そう、じゃあ、お願いね」


 この態勢なら氷嚢を押し付ける必要がなく重力に任せることができて、滑ることもないから左手1つで事足りる。難点といえば、私の心臓の拍動を太もも越しに聞かれてしまうことだろうか。けれど、それはお互い様だ。


 太ももで感じる2つの脈はだいたい同じ速さで、静かな部屋に響く時計の針の音よりも随分と早く感じられた。

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