第5話 逃げられない

「これから、どうしよっかな」


 長いこと触っていた私のリボンから手を離した茅原さんは、そう言って何もなかったかのようにまたスマホを触り始めた。抓られた左頬はジンジンとした鈍い痛みが残っている。私はまだ今されたことに対して心の整理ができていなかった。

 正直、私は楽観的すぎたのだと思う。何してもいい、とは言ったものの、心のどこかでは普通の友達関係とあまり変わらない交流を期待していた。けれどそれは私の願望でしかなくて、茅原さんにとって私は無数にいる友達にも満たない存在なのだ。

 頬を抓られる、言ってしまえばただそれだけの行為なのに、心の中ではひどく動揺してしまって、ただ呆然と立ち尽くす。何が茅原さんの気に障ってしまったのだろうか。次怒らせたら何をされるんだろう。もっと気を付けなければ。そんな考えがぐるぐると渦巻いていた。


「丸井さん」

「は、ひゃい!」


 唐突に声をかけられて、思わず変な声が出る。


「これから何するか考えたんだけどさ、とりあえず私の家に来ない?」

「……へ?」


 思わぬ提案に、またも変な声が出た。その声は近くを通りがかったサラリーマンに聞こえていたようで、にやけた顔でこちらを見るのに気づいて慌てて顔をそむける。

 茅原さんはそんな私を不思議そうに見つめているけど、私にとっては大問題だ。茅原さんの家に行くなんて、つまりは敵地に自ら向かうようなもので、茅原さんのしたいことを何でもされてしまう環境に身を置くことになる。ただ私に断るという選択肢はあるのだろうか。


「ダメかな?」

「……ち、ちなみに、なんで家なの?」

「この辺でどっか入るってなると部活終わりの友達に会うかもしれないし、もうすぐ17時だからどこ行くにも結構混むと思うだよね」


 茅原さんに向けられたスマホを見ると、もう時間は16時半を回っていた。


「それにさ」


 茅原さんは私の体を見回す。


「……それだと、ちょっと寒くない?」


 そう言われて私はハッとする。北風の寒さからなのか、茅原さんへの恐怖からなのか、半袖のブラウスから伸びた私の腕は無意識に前で組まれていた。そう自覚すると外の空気が一層に冷たく感じられて、組む手に力が入ってしまう。


「やっぱ寒いんじゃん」

「……そう、だけど。でも、私今日何も持ってないし」

「手土産みたいな話? それは別にいいよ、私一人暮らしだし」

「えっ、そうなの?」

「誰にも言ってなかったんだけどね」


 そう言って茅原さんはけらけらと笑った。どうしよう、言い訳のように絞り出した理由も潰されてしまって、私には断る理由がもう残っていない。


「じゃあいいよね、それで」


 そう聞かれてしまったら、私はもううなずくことしかできなかった。


「……ちなみに、何するの?」

「うーん……それは行ってのお楽しみかな」


 ついてきて、と茅原さんは私に背を向けて歩き出す。これから私はどうなるんだろう。そう思うと消えかかった左頬の痛みがまたぶり返してきた。




 十数分ぶりに歩く駅構内は、さっきよりも人が増えて賑やかになっていた。さっきと違うのは、見える景色が来たときと逆であることと、私の目の前に背の高い茅原さんの背中があること。

 茅原さんと私の間に会話はない。それどころか、西ビルの大階段から歩き出すと、茅原さんは直ぐに外していたワイヤレスイヤホンを付け直したから、最初から会話する気はなかったのだと思う。

 今だって、後ろを歩く私のことを振り返って見ることもなく、私よりも少し大きい歩幅でずんずんと歩いていく茅原さんについて行くだけで精一杯だ。


 そうして歩いていると時々、山之上の制服を着ている人とすれ違う。それは男女2人組のカップルだったり、部活終わりの仲良しグループだったりするのだけど、その度に茅原さんは私を振り払うように早歩きをして距離を空ける。私の歩幅じゃ小走りしないと追いつけなくて、私は自分の息が少し上がっているのを感じていた。

 さっきは頬を抓ってまで、家に連れ込もうとしてまで私に茅原さんのことを意識させたくせに、今の茅原さんは私の気持ちを考えているとは全く思えなくて、何だか無性に苛立ってくる。


「……ばか」


 こんな風に悪態をついても、今の茅原さんには聞こえないんだろうな。いくら私が友達未満の道具だからといって、少しくらい私に興味を持ってくれてもいいじゃないか。学校の人の前で私と関わりたくない、なんて考えが透けて見えて、何だか凄く寂しくなった。


 いっそのこと、このままついて行くのをやめようか。一度も振り返ることなく西改札に入った茅原さんを見て、そんな考えが頭をよぎる。いなくなったって、今の茅原さんはどうせ気づかない。

 そもそも、なんで私が律儀に茅原さんについていく必要があるのか。このままのこのこ茅原さんの家についていったら、私はそこで『ひどいこと』をされるのだろう。そんなの、飛んで火にいる夏の虫、という状況そのままだ。


「……よしっ」


 少し考えて、私はちょっとした反抗の決意の声を出した。このまま茅原さんが後ろを振り向かないなら、私のことはもうどうでもいいということなのだろう。それなら、私の方から離れてやる。

 相変わらず歩幅の大きい茅原さんについていきながら、帰り道の電車へとつながるルートを頭の中で計算する。この時間なら、3番線に下り方面の急行列車がもうすぐ来るはずだ。茅原さんの家の場所は知らないけど、もし3番線を使わないなら、しれっと私だけその急行に乗ろう。


 そんな私の決意を知ってか知らずか、奇しくも茅原さんは私の帰り道と同じく、3・4番線のホームへ向かうエスカレーターに乗り込んだ。茅原さん、同じ路線だったんだ。


 ――下り方面3番線、急行列車が間もなく到着いたします。ご乗車の方は黄色い線の内側にお並びください。


 エスカレーターの上からはそんなアナウンスと共に、走ってくる電車の音が聞こえる。スマホを触っていた茅原さんはそのアナウンスに一瞬顔を上げたようだったけれど、またすぐにスマホに目を落とした。この路線は電車の間隔が長いからもっと急いでもいいはずなのに、全く焦ることがないということは、多分、茅原さんは上り方面を使うのだろう。そうだとしたら、もうここでお別れだ。


 私の心臓がドクンドクンと少し早くなる。ここまで、茅原さんは私の方に振り返ることもなく、私がついてきていると慢心しているはずだ。そんな茅原さんを裏切って、私はこれから帰路につく。振り返って後ろに私がいなかったら、茅原さんはどんな反応をするんだろう。

 きっと少しは慌てるはずだ。私が今どこにいるかをすぐ聞いてくるだろう。そうしたら、見失って違う電車に乗ってしまったと言い訳しよう。もし、私が意図的に離れたことを勘づかれて、昨日の階段のことを持ち出されたら……その時は引き返して合流すればいい。そうなったとしても、今度は私から目を離さないように意識してくれるはずだ。

 エスカレーターを上がりきった茅原さんは、案の定電車が来ている3番線には目もくれず、上り方面の4番線ホームに向かって歩き出した。当然のように、私の方に目を向けることはない。

 続いて私もエスカレーターを降りる。もう駅のホームは急行列車を降りた人でごった返していて、3番線の発車のチャイムも鳴り始めていた。


「……じゃあね、茅原さん」


 茅原さんに背を向けて3番線に向けて歩き出す。この時間になると下り方面の電車に乗り込む人はもうだいぶ多くなっていた。いつもはそれだけで嫌になるけど、今日は少し違う。

 この電車に乗るだけで、茅原さんを裏切ることが出来る。私のことを一切気にしている素振りのない茅原さんを少しは慌てさせることが出来る。そう考えると、この満員の電車に乗るのも悪くない。

 そんなことを考えながら電車に乗り込もうとしたその瞬間。


「あっ」


 急に右の手首を誰かに掴まれて、そのまま強い力で後ろに引かれた。そのあまりの強さに傾いた私の体は制御が効かず、後ろにいた人の体にぶつかる。それと同時に目の前の電車の扉が閉まった。


「……そっちじゃないよ、私の家」


 背後から冷たい声。恐る恐る振り向くと、スマホを片手に持った茅原さん。その表情は少しにやけていた。


「やっぱり、逃げようとしてた?」


 手首をぎゅうと掴まれる。そうじゃない、と私は首を横に振る。


「……じゃあ、構ってほしかった?」


 ……なんでわかってるんだ、この人は。図星を突かれて目を丸くすると、茅原さんはやっぱり、とくすくす笑った。


「まさか帰ろうとするとね」

「……ごめん」

「まあ、私も意地悪しすぎたかなとは思ったけど」


 茅原さんが差し出した手を借りて、私は体勢を立て直す。思考が見透かされそうで、茅原さんの目を見ていられずに俯いてしまう。


「……なんで気づいたの?」

「丸井さんの家が下り方面にあるっていうのは知ってたから。そっちじゃないよって言おうとしたら、帰ろうとしてるんだもん」

「知ってたの?」

「まあ、たまに帰ってるの見てたから。ほら、あの金髪の子目立つでしょ?」


 多分、琴乃のことだ。確かに、校則の緩い山之上高校の中でもあそこまで明るい金髪にしてる子はなかなかいない。一緒に帰っているのを見ていたら、確かに印象付くのかもしれないけれど。


「とにかく、あんま余計なことしないでよ。肩だってまだ痛いんだから」


 私の手首をつかんでいるのは、茅原さんが肩を痛めているはずの左手だった。そんな力が入るならもう大丈夫だよ、なんて言いたくなる。


「さっきは昨日の今日で逃げない、なんて言ってたのに」

「別に、逃げたかったわけじゃない」

「ほんとかなぁ」

「ただ、馬鹿らしくなっただけ。今から『ひどいこと』されについていくってことが」

「そんなひどいことしそうに見える?」


 茅原さんは白々しくそんなことを言う。


「……さっきしたじゃん」

「さっきのは、……まぁ、したかったから」


 左頬をさすってやると、茅原さんはバツの悪そうな顔をした。


「あれは別に、あんまりひどいことじゃないでしょ」

「でも、結構痛かったし」

「あーもう、わかった」


 茅原さんは少しかがんで、また私と目を合わせる。


「今日は別に、もうひどいことする気はないから」


 その宣言をしっかりと耳に焼き付けて、私はこくりと頷いた。それを見て茅原さんはふぅとため息をつく。


「でもまあ、私も道具の管理が甘かったかな」

「え?」

「ちゃんと、繋ぎ留めないとね」

「何言って……あっ!」


 瞬間、私のお気に入りの丸眼鏡を茅原さんが抜き取った。視界が一気にぼやけて、どこにもピントが合わなくなる。


「ちょ、ちょっと、返して!」

「今日帰るときに返す。逃げたら壊しちゃうよ」

「ほ、ほんとに危ないから!」

「大丈夫、家までは離さないでおくし」

「そ、そういう問題じゃ……」


 茅原さんはまた私の手首をぎゅうと掴んだ。ぱちぱちと瞼を上下させて、目を丸くしたり細めたりする私の姿は相当滑稽なのだろう。茅原さんはなんだか機嫌がよさそうで。


「ほら、電車来るよ、行こ」


 腕がぐいっと引っ張られる。またバランスを崩しそうになるのをこらえて、私はまた少し早歩きで茅原さんについていった。今度は茅原さんは目の前ではなくすぐ横にいる。さっきまで私のことなんて何の興味もないんだろうと思っていたのに、茅原さんに腕を掴まれて、しきりに私の顔を覗き込んでくるこの状況は、困惑9割……心地よさ1割だ。

 あぁ、なんで私は目が悪いんだろう。茅原さんは隣でなんだかすごく楽しそうにしているけれど、私の目はその顔をくっきりと捉えることはできなくて。今日ばかりは、夜中ベッドでゲームばかりしていた小学生時代の自分を少し恨んだ。

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