第4話 待ち合わせ
山之上高校の校舎と校門をつなぐ少し急な坂道は、昨日の台風の影響で落ちた黄色のイチョウの葉が絨毯のように敷き詰められていた。
「…………はぁ」
なんはんを下る今日の私の足取りは重い。原因は色々ある。5時間目に返却された英語の小テストの出来が過去最悪だったこと。日直の仕事でまた三島くんに気を遣わせてしまったこと。そして――。
『今日の放課後、空いてる?』
この後、茅原さんに呼ばれていること。スマホの画面に表示されたその文をもう一度みて、私はまた大きめにため息をついた。昼休みの琴乃と由貴との『ひどいこと』談義が良くなかったと思う。あれのせいでどうしても、『ひどいこと』をされるかもしれないという恐れが私の心の片隅を占拠していた。
なんはんを下りきり校門を出ると、西に傾いた太陽のオレンジ色の光が私の眼鏡を強く照らしていた。時計を見ると午後4時すぎ。この時間になるとだいたいの人は先に帰ったか部活があるかで、駅に向かう道は人がだいぶ疎らになっていた。
毎週火曜日、琴乃と由貴には部活があって、私だけが休みの日は、この帰り道を一人で歩く。いつもは周りに仲良しグループがいて、わいわいと会話をしているのを聞いてうらやましく思うけれど、日直の担当の週はこうやって静かな帰り道を歩くことが出来るから、少しだけ寂しさを紛らわせることができた。
「……さむ」
歩いているうちにも太陽はどんどんと西の方へ沈んでいく。台風が持ってきた暖かい空気は、太陽が沈むにつれてどこかへ行ってしまって、北からは冷たい秋の風が時折吹き始めていた。
やっぱり、半袖で来るのはやりすぎだったかもしれない。ブレザーを持ってきているわけでもないから、茅原さんが私のことを解放するまではこのままということになる。寒がりな私は耐えられるかな、と数時間後を自分を心配した。
そうこうしながら歩くこと約15分、緩やかな下り坂を下りきった先に駅が見える。このあたりでは一番大きな駅で、地下鉄も止まる。駅周辺には百貨店や電気店のビルが何本か立っていて、ここに行けば何でも揃うと評判の駅だ。
茅原さんはこの駅を今日の集合場所に指定した。なんでも、私と茅原さんが一緒にいることをあまり知り合いに見られたくないとか。……少しだけ胸が痛むけど、私もそれには同意だ。茅原さんと一緒にいるとクラスメイトにはどうしても好奇の目で見られるだろう。それにはまだ心の準備が出来ていなかった。
『駅、つきました。どこ行けばいいですか』
茅原さんにメッセージを送ると既読はすぐについた。
『西ビルの大階段あたり、って言ってわかる?』
『駅の奥の方ですか?』
『そう、階段の近くの柱の方にいるから声かけて』
『わかりました』
茅原さんへの連絡に私は少し緊張していたようで、そのせいで言葉遣いが少し堅苦しくなってしまった。はぁ、と小さくため息をついて、連絡された場所に向けて歩き出す。
それにしても西ビルとは、ずいぶんと奥まで行ったものだ。学校がある東口から駅を東西に横断して反対側の端に西ビルはある。大学も近くにあって学生の活気に溢れる東口とは違い、西口方面はサラリーマンが大半の典型的なオフィス街だ。駅西口の奥の方にある西ビル付近は、山之上の制服を着た人に会うことはめったにないだろう。当然のことながら、私も実際に行ったことはない。
いつも使っている東改札を横目に通り過ぎると、もう私にとっては未知の領域だ。少し歩くと、昨日茅原さんと保健室の佐藤先生が話していた駅前の新しいパンケーキ屋さんを見つけた。
「……ここか、パンケーキ屋さんって」
開店ののぼりを出しているのは見たことあるけれど、パンケーキ屋さんってことは知らなかったし、並べば1時間はかかるであろう行列ができるほど人気があるなんて話に聞いたことがなかった。
少し近づいてのぼりを見ると『10月4日開店!』との文字。つまり茅原さんはこの1週間のうちにこのパンケーキ屋さんに行き、おいしくないとの評価を下したということになる。
「いいなぁ、茅原さんは」
茅原さんは友達がたくさんいるだろうから、気軽に行く予定を立てられて、こういうところで行列に並ぶのもあまり退屈にならないんだろう。それで入った店がおいしくなくても、あんまりおいしくないねって素直に言えるんだろう。
それに比べて私はどうだろう。一緒に行ってくれる友達は、せいぜい琴乃と由貴くらいか。もし2人と行ったとして、おいしくないなんて素直には言えないと思う。
いや、そもそも琴乃と由貴はもう他の友達と行ったのかもしれない。一回行っておいしくないことを知ってるから、私が2人を誘っても、何かと理由をつけて来てくれないかもしれない。
こういうことを考えると、私の思考はどんどん卑屈な方向に向かってしまう。やめだやめ、今日は茅原さんと2人きり、こういう私の卑屈な考えを持っていくべきではない。カップルやグループの姿でにぎわうパンケーキ屋さんの行列に背を向けて、私はまた駅の西口の方へと歩き出した。
「…………あっ」
連絡して5分、西口へと下るエスカレーターを降りると、正面に見える西ビルの大階段の手前に、大きな柱に背を預けて、パステルのスマホを持った茅原さんの姿が見えた。瞬間、自分の心臓が少し早くなっているのを感じる。
ここで茅原さんに声をかけたとたんに、私は茅原さんのものになる。何をするかは聞いていない、いや、怖くて聞けなかった。『ひどいこと』をする、なんて言われたら決意が揺らいでしまいそうだったから。それでも、昨日怪我させてしまった罪悪感と、茅原さんを知りたいという少しの好奇心から、私はここまできた。ゆっくりと息を整えて、少し離れた位置から茅原さんに声をかける。
「茅原さん」
……あれ? 声をかけても茅原さんはスマホを触ったまま微動だにしていない。どうやら気づいていないようだ。それなら、ともっと近づいて茅原さんの腕に手を伸ばす。
「……茅原さん!」
「うわっ、びっくりした」
腕を軽くたたきながらさっきよりも大きな声で名前を呼ぶと、茅原さんは驚いたのかびくっと体を一回震わせながら丸くした目でこちらを見下ろした。
「来ないかと思った、丸眼鏡の丸井さん」
そう言いながら茅原さんは赤茶の長い髪で隠れていたワイヤレスイヤホンを取る。その顔にはいつも教室で見ていたような優しい笑顔があった。
「ごめんなさい、遅くなって」
「ああいや、日直だし、それはいいんだけど。……やっぱやめますって言いそうだなって」
「……昨日の今日でそんな」
「でも、迷ってたでしょ」
「……まぁ」
「夜メッセージ送ってみたら、既読一瞬でついてちょっと面白かったんだよね」
葛藤を見透かされてたことを知って、なんだか少し恥ずかしくなって一瞬目をそらす。そんな私を見て、茅原さんはけらけらと笑った。
「でも、来たってことは、そういうことだよね?」
「……まぁ、もう、好きにして」
「よし、決まりね」
取引の成立を確認した茅原さんは、柱から体を離してうんと伸びをした。はぁ、と息をついてこちらを見る茅原さんの立ち姿に、私は思わず目を奪われる。
私の目線の高さが、茅原さんの胸の辺りの高さとなるくらい、茅原さんは身長が高くてスタイルもいい。少し短いスカート丈の下に見える脚は、筋肉質ではあるが、細くてスラッとしているように見える。そんなモデルのような体型をしているのに、顔はどこか幼さが残る童顔で、口角を上げると誰もを魅了する笑顔を作ることが出来る。
つくづく、こんな関わり方じゃなくて、普通に友達として知り合ってれば、なんて思うけれど、それは後の祭りだ。
「何見てんの」
少しの間惚けていると、茅原さんは腰を曲げて屈むようにして私の顔を覗き込んだ。瞬間的に整った顔が近づいてきて、私は怯むようにして1歩下がる。
「……茅原さん、本当に綺麗だなって思って」
「え、あぁ、そう……」
思わず素直な感想が口から出る。私は自分が恥ずかしいことを言ったことに気づき、慌てて取り繕うように、ははっと笑った。ただ、茅原さんは私の言葉に虚をつかれたように動揺して、困惑したような表情を表に出していた。
「…………そういうこと、しばらく面と向かって言われてなかったな……」
「え、そうなの? 私、いっつも思ってるんだけど」
「いや、うん、あぁ、そうなんだ……」
瞬間、一際大きい北からの風が私たちの間をビュンと吹いた。
……茅原さん、どうしたんだろうか。いつも笑顔を崩さないという印象だったのに、私の言葉をきっかけにして、一瞬のうちに茅原さんの笑顔はどこかへ行ってしまった。
照れているのかなとも思ったけれど、代わりに現れたのは、そう、そうかという呟きと、困惑、焦りの表情。私は何か変なことでも言ったのだろうか。そんなに顔を崩されると、私まで不安になってくる。
数秒間の長い沈黙が流れた後、茅原さんの表情はようやく落ち着きを取り戻した。そして今度は悪戯っぽい笑みを浮かべて私の顔をまた覗き込んだ。吸い込まれるように茅原さんと目が合って、私は背筋をピンと伸ばした。
「私は、丸井さんの顔も綺麗だと思うけどね」
「ひゃっ」
急に茅原さんの冷たい右手の指が私の頬を包んだ。思いがけない刺激に私の体が少し跳ねる。
「肌白いし、柔らかい」
「ちょっ」
そのまま茅原さんは私の頬を撫でる。
「眼鏡の下の泣きぼくろも可愛いよね」
その触れ方は何か貴重なものを触るように優しい。けれど、笑みを浮かべていた茅原さんの表情がまたなくなる。
「……でも今の丸井さんは私の道具」
「いっ……!」
優しく触れていた茅原さんの右手が突然牙を向いて、左の頬が3本の指で抓られる。指にはどんどんと力が入っていって、表情筋の痛みがどんどんと増していく。
「こういうことされても、丸井さんは何も言えないんだよ」
「くっ、いたっ……!……はぁ、はぁ……」
茅原さんが頬を抓る右手を放しても、私の左頬にはまだ痛みは残っている。つーっと背中に冷たい汗が落ちるのを感じた。
「ねぇ、丸井さん」
優しい声色で私の名前を呼ぶ茅原さんに恐る恐る目を向けると、茅原さんは清々しいといった表情を浮かべて、まだ頬に触れていた手をするすると下に降ろす。
「何しちゃうかわからないけど、絶対逃げちゃダメだからね」
私の制服のリボンに触れる茅原さん、その表情は楽しそうに笑っていて。体がぶるると震えたのは北風のせいではないような気がした。
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