第3話 ひどいことって

 ――キーン、コーン、カーン、コーン。


 4時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。宿題のプリントを配り終えた数学の伊藤いとう先生は、礼をさせると汗だくのまま足早に教室を出ていった。


「……はぁぁぁ、今日暑すぎ」


 どこからともなくそんな声が聞こえる。家から持ってきた水筒に口をつけると、僅かに残った命の水が喉を通ってすぐに消えた。

 10月13日、火曜日。今日の天気は台風一過のカンカン照り。昨日ここら一帯を直撃した台風9号は、秋の冷たい空気も雨雲も全てを根こそぎ持っていって、南から持ってきた暖かい空気を振り撒いた。おかげで今日は季節外れの真夏日だ。

 普段は寒がりな私も、さすがに今日は仕舞っていた半袖のブラウスを着ている。けれど、教室の空調の調子が悪いようで、室温は外の日陰と同じくらい。耐えられない暑さではないが、額には汗が滲んでいた。


「絵美ぃ、暑いよぉ、水ちょうだーい……」


 背後から暑さで溶けた声が聞こえる。振り向くと、私の数少ない友人の1人である細谷ほそや 由貴ゆきが机に突っ伏して私に手を伸ばしていた。


「ごめん由貴、今全部飲んじゃった」

「はぁ? ちびのくせに飲みすぎだよ」

「ちびって言うな。それに、自分のがあるでしょ」

「さっき全部飲んだ」

「飲みすぎだよ」

「うっさい、ちび」


 由貴は顔をあげて舌をべーっと出した。私が初めて会話するクラスメイトに必ず一回ちびと呼ばれるのは、おおかた由貴のせいだ。その持ち前の大きな声でちびと呼ぶのは本当にやめてほしい。140cmにギリギリ乗せたことを褒めてほしいくらいなのに。そんなことを考えていると、後ろからまた声がした。


「仕方ないから由貴には私のあげるよ、はい」

「うわぁ、恵みの水だぁ。ありがとう、琴乃ことのぉ」


 長い金髪をふわっと巻いた私の一番の親友、本田ほんだ 琴乃ことのが、水がなみなみと入った水筒の蓋を由貴に渡す。それを一気に飲み込んで、由貴はぷはぁ、と声に出した。


「生き返るぅー!」

「私のもこれで最後だから、あとで買いに行かないとね」

「琴乃、あんま由貴を甘やかさないでよ、うるさくて頭にひびく」

「意地悪、ちび、だから友達いないんだよ」

「……絵美が気にしてること言わないであげて」

「うぅ、由貴にいじめられた」


 泣き真似をして琴乃の腰に抱きつくと、琴乃ははいはい、とポニーテールでまとめた私の髪を撫でた。由貴も同じようにしようとするが、琴乃が手で振り払う。こういうとき、琴乃は私の味方をしてくれる。由貴に向けてニヤッと笑うと、由貴はむすっと頬をふくらませた。

 私と琴乃と由貴はいわゆる幼なじみだ。小学校からの腐れ縁で、中学時代は身長のせいで嫌がらせを受けていた私の心の支えのような存在であった。そして3人揃って受験が振るわず、地元からは少し離れたこの山之上高校に進学、通称となった。

 昼休みにはそんな2人が私の席の周りに集まって一緒に昼食をとるのが常になっていた。机を動かして3人が向かい合う形にすると、私と琴乃は弁当を広げた。


「あれ、由貴、弁当は?」

「暑くて食欲ないし、あとでお腹すいたら食べる」

「大丈夫?授業中も結構しんどそうにしてたけど」

「別に、数学分からないし眠かっただけ。だいたい、授業中寝てるのはちびもでしょ」

「絵美は寝てる時も姿勢いいし、真面目に授業受けてるように見えるから」

「由貴も私みたいに座高低くなれば好きなだけ寝れるよ」

「無理だよ。私、もう成長しちゃったから」

「縮めてあげようか、その背」


 こうして軽口を叩けるのも、琴乃と由貴だけだ。高校に入ってからも、私にはこの2人以外に胸を張って友達と言える人はいない。私に近づこうとする人を2人ががるると牙を剝いて警戒する、というのもあるけど、私にはそもそもコミュニケーション能力が足りていないという自覚がある。だからこうして昼休みに構ってくれる幼なじみという存在はとてもありがたかった。


「でも、絵美は今日寝すぎじゃない? 2時間目と3時間目も寝てたでしょ」

「えぇ、ばれてた?」

「そりゃバレバレよ、ちびは背筋張ってても手が動いてないんだもん。昨日雷怖くて眠れなかったとか?」

「それは琴乃のことでしょ、私はただ、昨日色々あって寝不足だったから」

「色々って?……まさか三島――」

「いや、三島くんは関係ないから。ただ夜にスマホ見すぎただけだし」


 がるがると牙を剝こうとする琴乃をいさめながら、私は昨晩のことを思い出す。


 風雨の中、なんとか家にたどり着いてから、私はひどく後悔をした。

 なぜ私は茅原さんの提案に乗ってしまったのか。茅原さんが私に『ひどいこと』をするという宣言が後から大きくのしかかって、頭から離れずにぐるぐると回っていた。

 やっぱり提案を断ろうか、そう思って茅原さんとのトークルームを開くと同時に、『肩痛い』とのメッセージが届く。狙いすましたかのようなタイミングで送られたその短い言葉は、私の罪悪感を刺激して、結局何もできないまま雷が鳴り響く部屋の中で悶々と時を過ごしていた。


「……2人はさ」


 回想から戻ってきて、私は琴乃と由貴に問いかけた。


「『ひどいこと』って言ったら何を思い浮かべる?」

「……何、その話題」


 おかしくなったか、とでも言いたげに、2人はきょとんとした顔をこちらに向けた。


「いや、いいから。とにかく何を思い浮かべるかって」

「何って……拷問とか、虐殺とか?」

「あぁ、いや、そういうスケールの大きいものじゃなくて」


 茅原さんにそういう意図があったら、なんて考えたくもない。もう一度、聞き方を改めて問いかける。


「もし、私に『ひどいこと』をするとしたら、2人はどんなことをするのかなって」

「……誰かに何かされてない? ちび、熱でおかしくなった?」


 ……まぁ、そうなるよね。心配そうに手を私のおでこに当てる由貴に、大丈夫だから、と伝えて手を下ろさせる。


「絵美にひどいこと、ねぇ」

「……そうだなぁ。例えば、こう、眼鏡をぐしゃっと、とか」

「ひぃ」

「体を押しつぶして息できなくさせるのとかも簡単そうかなぁ」

「……ひぇぇ」

「小顔なのがむかつくから、パンパンになるまで殴る、とか」

「…………ひょぉぉ」

「……自分で聞いておいてそんな反応するなよ、ちび」


 今、由貴の主観も入っていたような。そう考えると身の毛もよだつような由貴の案に体が勝手に反応する。そんな私を見て、由貴はあきれたようにため息をついた。


「あとは、今ここで絵美の服をひん剥いて、縛って放置するとか」

「…………うわぁ」

「……琴乃って、ちびのことになるとたまに本当に気持ち悪くなるときあるよね」

「ちょ、ちょっと、本気にしないでよ」


 突拍子もない琴乃の案に、私と由貴が体ごと引いてみせると、琴乃はあわてて2人の腕をつかんだ。


「あー、ちょっと私も暑さでおかしくなってるみたい」

「水、買いに行こう。私もそろそろ耐えられない」

「じゃあ、私も」

「絵美の分は一緒に買ってくるよ。だから寝だめときな、あと2時間あるんだし」

「私が言えることじゃないけど、これ以上寝てたらほんとに赤点になるぞ、ちび」

「あー、うん、わかった。よろしく」


 お金はあとでもらうから、と立ち上がった2人は私を制して、教室を出ていった。残された私は食べ終わった弁当を片付けて、自分の机に向き直る。

 気温が高く、決して居心地のよくない教室には、いつもよりも多くの人が残っていた。それもそうだ。教室が暑いということは、外はもっと暑い。また、我が山之上高校は文字通り少し高い丘の上にある。しかもここは丘の頂上にある校舎の最上階、どこに行くにも長い階段を下る必要がある。こんな暑い日にそのような労働は誰もしたくない。


「……寝だめるって言ってもねぇ」


 いざ、寝ようと意気込んで眠ろうとすると目が覚めてしまうというのが人間の性。ただ、1人で席に座っていてもあまりやることがなく、いつも通りにぎやかな昼休みの教室を見回すと、ふと教室の前方にいる賑やかな集団に目が止まった。


「……やっぱ人気者だなぁ」


 集団の中心に茅原さんを見つけて、思わず声が出る。新しく保健室でもらったのであろう氷嚢を頭の上に乗せて涼んでいる茅原さんは、いつも通りの優しい笑顔を周りに振り撒いていた。


『学校でいい子を演じてるとね、色々ストレスもたまるし疲れるの』


 昨日保健室で言っていたことを思い出す。今の茅原さんの笑顔は本当に演技だというのか。あんなに友達に囲まれて、話題の尽きない会話ができて、ずっと笑っていられる。そんな恵まれた学生生活を送っているのに、どこに不満があるのだろうか。私にはまるで遠い世界で、少し嫉妬をしてしまう。


「だーれのこと見てんの、絵美」


 突然、背中に重みを感じて、右耳の近くで琴乃の声がした。


「……もしかして、石原いしはら?」


 反対の耳元では由貴の囁き声。


「えぇ、石原? やめときな、あんまいい噂聞かないし」

「うん、ちびにはもったいない。もっといい人いるよ、多分。あいつはちょっと……」

「でも、まぁ絵美が好きなら応援するけど。そういえば連絡先持ってるからあげようか?」

「……ちょっとさぁ」


 勝手に話を進める2人の頭を強めに叩く。どうやら2人の中では、私は今茅原さんの隣にいる石原くんを見つめていた、ということになっているらしい。


「石原くんを見てたわけじゃないから。そもそも、喋ったこともないし、今後喋るつもりもない」

「おぉ、強い拒絶。石原、今の聞いたら落ち込みそう」

「勝手に話題に出されて、勝手に振られた。どんまい」

「でも、じゃあ絵美は誰を見てたの? 恋する乙女、みたいな感じでそこら辺みてたけど」

「別に……みんな友達多いなって思っただけ」

「お、おぉ」

「……ごめんね、ちび」

「まともに受け取るのやめて、ほんとに惨めになるから」


 適当にでっち上げたもっともらしい口実に対して、必要以上に哀れみの目を向ける2人の頭を今度は軽く叩いた。そうこうしていると、前方の集団がぞろぞろと大移動を始める。


「飲み物何がいい?」

「今自販機に何あるっけ、安っぽいメロンソーダとか置いてた?」


 漏れ聞こえる話によれば、どうやら集団で飲み物を買いに行くらしい。そこには茅原さんの姿もある。


 ――――あっ。


 そのとき、初めて私は教室で茅原さんの表情がなくなる瞬間を見た。集団の最後尾、いつも一緒にいる人たちの誰にも見ることが出来ないところで、茅原さんは昨日保健室で見せたような表情をしている。手元にはパステルのスマホ、指先をフリックさせて何かを入力しながら、つまらなそうにして歩いていた。

 突然、換気のためにあけられていた窓から強い風がビュンと吹いて、教室の机の上に放置されていたプリントが宙に舞った。私と茅原さんの間にそのプリントが舞い落ちてきて、一瞬だけ、茅原さんの退屈そうな顔が隠れた。次に顔が見えたときには、もうその表情はいつもの笑顔に戻っていた。

 何か、いけない所を見た気がする。そう思って、視線を横にそらすと、すぐに由貴と目が合った。


「ちび、多分今スマホ鳴ったよ」

「え、あぁ、ありがとう」


 ぐるぐるとした気持ちを抱えたまま、カバンからスマホを取り出してロック画面をみると、そこには『あんな』という名前。


『今日の放課後、空いてる?』


 初めてのお誘いに、私ははっと浅く息を吐いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る