第2話 償い
「多分、打撲だね」
ベッドに座り、ブラウスをはだけさせた茅原さんの少し赤くなった肩を見て、保健室の
「そこまでひどくはなってなさそう」
「よかった……」
優しい声で紡がれた佐藤先生の言葉に、私はほっと胸をなでおろした。
私と茅原さんは、偶然によって助けられた。足を滑らせた茅原さんは、私の腕を引くことにより、後ろに倒れることを寸前になって回避した。私と茅原さんの体は抱き合うようにして横方向に傾き、放り投げられていた茅原さんのカバンの上に奇跡的に落下した。私は茅原さんの体がクッションになって無傷。茅原さんはカバン越しに左肩を打ったようで、落ちた直後は苦しそうな息を漏らしていたが、一緒に保健室につく頃には落ち着いて佐藤先生の診察を受けていた。
「結構派手に転んだんだね。杏奈ちゃんでも痛くて泣くことあるなんて」
「……あはは、階段でつまづいて、ちょっとびっくりしちゃいました」
「階段ねぇ。雨の日は滑るんだから気を付けないと。……はい、しばらくこれで冷やしときな」
はぐらかしながら、そうですねぇ、なんて相槌をうって、茅原さんは受け取った氷嚢を左肩にあてた。さっきまで水瀬さんに向けていた形相とは打って変わって、いつもクラスの中心にある朗らかな笑顔を浮かべながら佐藤先生と談笑している。泣きはらした顔も、痛みでゆがんだものとすり替わっていて、あんな喧嘩をしていたとは到底考えられないような、優しい茅原さんがそこにいた。
「今日明日は痛むだろうから、なるべく安静にね。痛みが引かなかったり、動きに違和感があったら言ってね」
「大丈夫ですって、これくらい。ほら、こうやって……っ」
肩を回そうとした茅原さんの笑顔が一瞬ひきつる。
「ちょっと、無理しないの」
「……はい」
佐藤先生に心配そうに注意されて、茅原さんはしゅんとしながら愛想笑いを浮かべた。ごろんと氷嚢の中の氷が動く。
ベッドに腰掛ける茅原さんの正面に用意された丸椅子に2人分のカバンを持って座っていた私は、なんだかいたたまれなくなって視線を佐藤先生の方に向けた。同時に、佐藤先生がこちらを見て目が合う。
「あなたも転んだ?」
「え、いや、……どうしてですか?」
「眼鏡、曲がってる」
「へっ?……あっ、ほんとだ」
慌てて眼鏡を取って確認すると、右の丁番が少し変形して、右のつるが上方向にひん曲がっていた。落下の衝撃で曲がったんだろうか。あぁ、この前買い換えたばかりなんだけど。
「さっき眼鏡かけたまま寝ちゃったんで、それかもしれないです」
「そう、授業中に寝ちゃダメよ。せっかく真面目そうな顔してるのに」
そうですよね、なんて呟きながら、顔のひどくぼやけた佐藤先生の方向に愛想笑いを浮かべる。その間にもお気に入りの丸眼鏡には応急処置。丁番に逆方向の力を優しくぐっとかけて、つるを手前に寄せる。その状態をキープしてやると、つるの反抗はだんだん収まってきた。あくまで応急処置だけど、つるは定位置に戻ったようで一安心。眼鏡をかけると、ぼやけた視界がくっきりとした輪郭を取り戻した。
それにしても、だ。私が眼鏡の蘇生を行っている最中でも、佐藤先生と茅原さんは楽しそうに話を続けていた。それも話題は、先生の今日のメイクは気合入ってるやら、駅前にできたパンケーキ店はあまり美味しくないやら非常に砕けたもの。30を少し超えた佐藤先生とそんな話ができるなんて、茅原さんは本当に誰とでも仲良くなれるんだなぁ、と感心してしまう。
――ピン、ポン、パン、ポーン。
突然、話の絶えない保健室に、無機質な校内放送のチャイムが鳴った。
――養護の佐藤先生、養護の佐藤先生。職員会議がありますので、至急、職員室にお戻り下さい。職員会議がありますので、至急、職員室にお戻り下さい。
「……先生、呼ばれてますよ」
「あぁ、そういえば職員会議忘れてた」
呼び出された佐藤先生は、いけないいけない、と頭をかく。
「じゃあ、杏奈ちゃん。絶対無理はしないように。記録会も近いんだから、悪くしないようにね」
「……はいはい、分かってますって」
「お友達も、杏奈ちゃんが無理してそうだったらちゃんと止めるんだよ」
「あ、はい」
「ある程度冷やしたら、気をつけて帰りなよ。氷嚢は持って帰っても、置いて帰っても、どっちでもいいから」
佐藤先生は早口でまくし立てた後、私たちのいる区画のカーテンの隙間から外に出て、シャッとカーテンを閉める。そのまま慌てるように保健室を出る足音が聞こえた。そうして今、ここには私と茅原さんの2人きり。
「……はぁ」
さっきまで笑顔を絶やさなかった茅原さんが、嘘みたいに表情を暗くして大きくため息をついた。氷嚢を持つ右手に力を入れたのか、氷同士がぶつかってカラカラという音を立てた。あんなに明るかった保健室の空気がピリピリと私を刺す。
クラスメイトといっても、茅原さんと面と向かって喋ったことはなかった。茅原さんはいつも人に囲まれていて、そこに入り込む勇気は私にはない。それに、背が高い人は苦手だ。上から見下ろされて気圧されるうえに、力では勝てない。私が小さすぎるのもあるけど、茅原さんは男子と比べても遜色ないくらい背が高くて、少し怖かった。
そんな茅原さんと2人きり。しかも立場は、佐藤先生が言った対等なお友達の関係なんかじゃなく、転落の加害者と被害者だ。せめて、もう1人いれば、頭の中に水瀬さんが浮かんで、すぐに消えた。階段から落ちた後、私が茅原さんの腰を支えて保健室に向かうまでの間に、水瀬さんの姿は見えなくなっていた。水瀬さんは、茅原さんのことが嫌いなのだろうか。そもそも2人はどういう関係なのだろうか。色々聞きたいことはあるけど、笑顔の消えた茅原さんの前で水瀬さんの話題を出すのははばかられて、私は何も喋れずにいた。
「……私、今日誕生日なんだけど」
沈黙を破ったのは茅原さんだった。そういえば、今日の休み時間はクラスが一段とざわざわしてたっけ。不機嫌そうに発せられた言葉に、思わず膝の上に乗った命の恩人である茅原さんのカバンをぎゅっと握る。
「……ごめんなさい」
「ほんと、最悪。殺す気だったの?」
「あれは、必死で……」
「別に、ほっとけばよかったじゃん」
だって、水瀬さんが。そう口に出そうとして慌てて口をつむぐ。茅原さんが私をきっ、と睨んで静止していた。やっぱり、水瀬さんの名前は禁句なようだ。誤魔化すようにして別の話題をふる。
「記録会って……水泳部だっけ?」
「そう」
「……いつあるの?」
「2週間後、中間試験の後」
「そっ、か」
「記録出なかったら、ちびのせいって言おうかな」
当然のように言う茅原さんの言葉に、背筋がぞわっと冷たくなる。クラスでちびといったら、不本意だけど、誰もが私のことだとわかるだろう。学年一の美少女を、陰キャのちびが階段から突き落とした。背びれも尾ひれもついてない事実だけど、そんなことを本人の口から広められたら……。
「ほんとに、ごめん」
「テスト近いし、練習時間も限られてるのに」
「うん。……でも、記録会がんばって」
「はぁ、何それ。自分勝手」
「……ごめん」
「別に、明日友達に聞かれたときに言ってもいいんだけど、ちびのせいって」
「……っ」
いつも遠目で見ていた優しそうな茅原さんが、怖い。茅原さんの周りにいる人が、クラスメイトが、数少ない友達が、私を白い目で見る想像をして、ぎゅうっと2つのカバンを強く抱いた。
「やめてよ、その反応。私がいじめてるみたいじゃん」
「……うん」
「はぁ……」
あきれたようにため息をついた茅原さんは肩に氷嚢を当てたまま仰向けにベッドに倒れこんだ。また、しばらくの静寂が流れる。
どうすれば。
どうしたら茅原さんは私を許してくれるだろうか。お金、には困っている様子はない。勉強、は茅原さんの方がよくできるのを知っている。私が茅原さんより優れていることなんて、ほとんどないだろう。けれど、茅原さんには考え直してもらわないと、これからの3年間に関わる。せっかく色んなことを諦めてこの山之上高校を選んだのに。
「そんなに、喋られたくないわけ?」
考えを巡らせているうちに、茅原さんはまた体を起こして、うんうんとうなる私を見ていた。首をこくりと縦に振って意思を伝える。茅原さんの視線が怖くて、振った首をカバンにうずめた。
「……じゃあ、他の人には言わないであげる」
「ほんとにっ?」
茅原さんの急な心変わりに、私の声が上ずる。顔を上げて茅原さんの目を見ると、彼女の顔には怪しい笑みが浮かんでいた。
「その代わり、私はこれから先、あんたに好きなことをする。そういう取引、どう?」
「……は?」
突拍子もない提案に、思わず間抜けな声を上げた。好きなこと、好きなことって、なんだ?
「……どういうこと?」
恐る恐る質問を返す。
「そのまんまの意味。……色々見られちゃったし、取り繕う意味もないから」
おそらく、水瀬さんとのことを思い出したのだろう。茅原さんは苦笑いをして続ける。
「学校でいい子を演じてるとね、色々ストレスもたまるし疲れるの。早い話、あんたを私のストレス発散の道具にする」
「……何するつもりなの」
「さあね、それはその時の気分次第。買い物に連れ歩くかもしれないし、愚痴に付き合ってもらうかもしれない。……たまに、ひどいこともするかもね」
「ひどいこと……」
「まあ、本当にするかは分かんないけど、あんたは口出ししないで私に従う。そんな感じ」
茅原さんの提案は、正直いまいちイメージできない。これは要は、友達になろうってことなのか。でも、少なくとも私は、友達にはひどいことはしない。
「ひどいこと、しないようにはできない?」
「私には階段から突き落とすっていうひどいことしたくせに、自分はされたくないってこと?……ほんとに自分勝手なんだね」
「い、いや、そういうことじゃないけど」
「……別に私はあんたのことなんてどうだっていいの。ひどいことをして嫌われたって別にいい。私はただ、ストレスを発散できればいいから」
表情が消して冷たく言い放った茅原さんは氷嚢を置いて、痛めた左肩をわざとらしく掴んで顔を歪めた。こんなあからさまな行動でも、私の心はチクリと痛んだ。
彼女は私に興味ない。嫌われたっていいと言うくらいだから、相当ひどいことだってされるかもしれない。むしろ、ひどいことしかされなくて、あとで後悔するかもしれない。けれど。
「……わかった、やる」
渋々、といった声色で取引の成立を告げると、茅原さんは一瞬驚いたように目を丸くする。
「……物好きだね」
やれやれと苦笑いをする茅原さん。そういえば、こんな表情をする茅原さんもこれまではあまり見たことがないな、と思った。
提案を受けたのは、別にひどいことをされたいからというわけじゃない。ただ、周りに今日の出来事を言いふらされたくないという、消去法だけで選んだわけではない。少しだけ、この提案に魅力があったのだ。
なんで茅原さんはいつも穏やかな仮面を被っているのか。
なんで茅原さんは今日あの場所で水瀬さんと喧嘩をしていたのか。
何より、なんで茅原さんは私にこんな提案をしたのか。
クラスメイトが誰も知らない彼女の素顔に興味が湧いた。
「じゃあ、決まりね。スマホ取って、カバンのポケットにあるから」
「わかった」
連絡先交換しよう、と茅原さんの声。言われたとおりに茅原さんのカバンをあさると、ポケットにパステルのかわいいカバーに包まれたスマホを見つける。それを茅原さんに渡した後、私も自分のスマホをカバンから取り出した。画面にSNSの登録のためのQRコードを表示させる。
「……丸井絵美、ってこれちびの名前?」
「え、私の名前知らないでしゃべってたの?」
衝撃的な言葉だ、仮にも半年以上クラスメイトなんだけど。そんな抗議の目を向けてやると、茅原さんは、私あんまり人に興味ないからぁ、なんてへらへらと笑った。
「でももう覚えたよ。丸眼鏡の丸井さん。加害者の名前はちゃんと覚えないとね」
こちらに目を向けてにぃっと悪戯っぽく口角を上げる茅原さんの表情には、いつもの華々しさが戻ってきていた。ふぅ、とあきれたため息をついてスマホを見る。ロック画面のデジタル時計には16:30との文字。……16時半?
「やばっ!」
大慌てでカバンを肩にかける。
「私、家遠いんだ。電車なくなっちゃうから帰るね!」
早口でまくしたて、茅原さんの反応を待たずに駆け出す。カーテンの隙間を通って、保健室のドアを出ると、さっきまで静かだった廊下はごうごうという雨風の音で満たされていた。台風9号、予報よりちょっと強くなるのが早い気がする。いや、これはまだピークじゃなくて、もっと強くなるのかも。家に帰るには、せめて最寄り駅に到着するには、駅まで走るしかない。
下駄箱から小さなローファーを取り出して、上履きを戻そうとしたとき、手に持ったままだったスマホがぶるぶると震えた。
『これからよろしくね』
あんな、というユーザーネームはおそらく茅原さんのものだ。そうか、私は茅原さんと連絡先を交換したんだ。友達になったというわけではないから、うれしくもあり、少し怖くもあり。ただこの何気ない9文字から少し勇気をもらって、覚悟を決めて雨空に駆け出した。
こうして私は今日、『ひどいことをしてもいい権利』を茅原さんにあげた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます