第5話 病棟の廊下

数年前に亡くなった父は、よく幼い私に向かって「世の中の仕事に貴賎はないんや、どんな仕事でも誰かに必要とされとる」と言っていた。確かにそうだ。けれど父は肝心な後半部分を私に教えてくれなかった。”仕事に貴賎はないが、収入には大きな違いがある”ということを。

関西の地方病院の、清掃員という職にたどり着くまで、私は相当数の色を転々とした。高校を卒業しそのまま上京してからはものすごく自然な形で夜職についた。びっくりするような美人ではない代わりに、そこそこの見た目と男性受けする愛嬌みたいなものが私にはあって、それに時代背景も手伝ってかなり羽振りが良い時期もあった。夜職で出会った元夫とは二十代半ばで結婚し数年で離婚。それからはまた夜職についたが、時代の変化と何より自分自身の年齢が今度は収入に大きなブレーキをかけた。いろんなアルバイトを転々としたが、今この縁もゆかりもない病院の早朝の病棟で床を磨いているなんて、いつの私が想像しただろう。

早朝の病棟は驚くほど静かだ。深夜はまだ救急搬送もあるのかもしれないが、私の出勤する明け方にはそれもほとんどなくなり、人間の気配すらほとんどしない。長く伸びた病棟の廊下にはモップのキュッキュッという音と、私の息遣いだけが響いている。当直の看護師がいるはずのステーション前ですら静まり返っている。


先日、元夫が亡くなったと風の噂で聞いた。もう別れてから三十年近く経つというのに、一度家族になった縁というのはなかなか切れない。もう連絡先どころか、どこで何をしているのかすら知らなかったのに、数少ない古い知り合いから訃報が入った。もちろん心が痛むこともないし、落ち込むこともなかったが、不思議と、彼の人生はどんなものだったのだろうと想像した。

彼は不動産販売の会社に勤めていた。営業マンとしてはそれなりに優秀だったらしく、付き合い始めた頃は同世代の中では稼ぎ頭だった。彼自身にもその自負はあったし、私もそういう彼の自信に惹かれていたのかもしれない。けれど、自信は時として傲慢さに繋がる。私たちの短い結婚生活はほとんど彼の傲慢さに蝕まれ、次第に関係は悪化していった。

子供がいたわけではないので、別れてから私は彼に金銭を求めなかった。なので詳しい事はわからないが、彼はある時期に独立し自身で不動産管理と販売の会社を設立したらしい。前の会社からお客さんをそのまま連れてきたこともあり、はじめの頃はうまくいっていたようだがそれからどうなったのかはよく知らない。勤め先の会社が連絡が取れないので彼の遺体を発見したらしいので、会社はもう潰れてしまってどこかで働いていたのかもしれない。


私は長い廊下の床を磨く時、目線を前に向けないように心がけている。静まり返った廊下は無限に伸びているように思えるからだ。できる限り目の前の、ほんの数メートル先までの床だけを凝視してモップを動かすようにしている。そうすると早く終わるような気がするのだ。もちろんそれが単に心の持ちようなのはわかっている。


彼は、私と同じようにいろいろな職を転々としたのだろうか。彼が大切に抱えていた営業マンとしての自信は、私たちの家庭を蝕んだ傲慢は、どこかに捨ててきたのだろうか。それを捨てなければならなかった彼は、果たしてどんな顔をしていたのだろうか。彼の人生を冷静に想うとき、言葉にできない感情は、それゆえ形をなすことができないまま、私の心の奥の方にゆらゆらと浮かんでいた。


長い廊下の突き当たりのガラス扉から太陽の光が入ってきた時、床に反射する眩しさに私はふと顔をあげてしまった。長く続く廊下。まだゴールまでは少し距離がある。固まった腰をかばいながら少し姿勢を正した時、差し込んだ光の中に、彼の姿を見たような気がした。

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にんげんさんか ククリネック @masaru1124

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