第3話 風船と立て看板

ガラスの自動扉を手動で開けると、等身大の立て看板に描かれたおもちゃの家を持つ若手女優と目があった。初夏に入ろうとしている日曜日の快晴とは対照的に店内はひんやりと暗く冷たい。道路に面した窓ガラスや壁には所狭しと物件情報が貼られている。カウンターの裏にまわり電気のボタンを押すと、入居者を待つ家々が安っぽい蛍光灯の光に照らされた。今日もまた一日が始まる。


就職活動で面接官に「どうしてウチに入りたいのか」と聞かれた時、僕は「不動産の仲介販売は誰かの人生の一ページに立ち会えるからです」と答えた。ちょうど読んでいた就活の指南書に動機は誇大に表現すべしと書かれていたからだ。しかし今思うと、僕は別に他人の人生にさして興味はないし、確かにこの仕事は入居者の人生の一ページに立ち会うのかもしれないが、それが常に良い方向に向かう一ページだとは全然限らないのだ。日々の業務を淡々とこなす中で、”人生”なんてものを相手にしているという実感は全くない。面接会場の会議室に響いた「誰かの人生一ページに立ち会える」という言葉だけが未だにこの世界のどこかを浮遊しているような気がした。


十時を少し過ぎた頃、予約を受けていた若い女性客が来店した。傍には三歳くらいの男の子が仏頂面でこちらを見めている。僕はいつものように笑顔を作って挨拶し、お茶を用意する。男の子にも出すべきか少し迷ったが、子供のためにジュースを用意する奇特なスタッフはおらずお茶以外に選択肢はなかった。

女性は席に座るなり僕に向かって「すみません、子供を連れてきてしまって」と謝った。僕は一瞬なぜ謝っているのわからなかったが、おそらくそこに理由はない。子供を連れているということ自体を謝ることに慣れてしまっているのだろう。物件探しの申し込み用紙には、彼女と男の子の二人住まいを希望と書かれていた。

「入れ替わりの時期を少し過ぎてしまっていますから、もしかすると希望に沿うような物件は難しいかもしれません」

と言いながら記入された条件を打ち込んで物件を検索する。実際は、二人が希望された家賃で住むには、この地域は少し地価が高すぎる。全ての条件を入力すると、やはり画面には結果なしと表示された。

「記入いただいた条件の中で、削っても良い部分はありますか」

できる限り柔和に、できる限り優しい声色に努めてそう聞いた。母親の隣にちょこんと座った男の子は壁の物件情報に飾られている風船を眺めている。

「そうですねぇ、お風呂とトイレは一緒になっていても大丈夫です」

「ありがとうございます、それではもう一度探してみますね」

「すみません」

母親は小さな声でまた謝った。湯呑みに注がれたお茶は手をつけられないまますでに緩くなっているようだ。


「ではご検討いただいて、改めて内覧にお越しください」

僕は希望よりも少し駅から遠い物件と、希望よりも少し家賃が高い物件の情報が印刷された紙を封筒に入れながらまた作り笑いを浮かべる。母親は「すみません」と小さく謝った。男の子はまだずっと壁の方を眺めている。

「もしよかったら、風船持って帰りますか」

僕はとっさにそう口走った。母親は少し驚いてから、

「いえ、そんなの申し訳ないです」

とまたバツの悪そうな顔をしたが、僕は構わず壁から少ししぼみかけている風船を外し、男の子に渡した。男の子は微笑みこそしなかったが、風船を受け取り自慢げに母親に見せた。

「すみません、ありがとうございます」


自動扉が開くと、心地よい風がふっと吹き込んだ。等身大の立て看板に描かれた若手女優だけが笑っていた。

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