第2話 ニチレイのピラフ

ひねりを回すと、電子レンジは鈍い音をたてながら冷食のピラフを温め始めた。ふと、ため息が出る。

妻と離婚してから五年が経つが、同居の母が認知症を患ってからはまともに誰かの手料理を食べたことはない。大学を出るまでずっと実家暮らしで、就職後すぐに結婚したので一人暮らしの期間はほとんどないし、戦後間もなく田舎から嫁いできた母に、息子に家事を手伝わせるという進歩的な発想はなかった。だから、もう還暦を迎えようかというのに自分の食事すら作ることができない。寂しげなオレンジ色に照らされながらレンジの中で回転する冷凍米を眺めながら、現代の加工技術に感謝した。


五年前の初秋、休日の朝起きると引越し業者が妻の荷物を運び出している場面に立ち会った。寝ぼけ眼でうまく現状が把握できないまま突っ立っていると、私に気が付いた妻は一言、

「出て行きます、今後については改めて連絡します」

と告げ、早々に家を出て行った。妻とはそれっきり、本当にそれっきり会っていない。考えてみると不思議な話だ。もう二十五年以上連れ添った家族と、ある日突然別離する。いや妻にとっては前から計画されていたことで"ある日突然"だと思っているのは私だけなのだろうが、それでも結婚し、子をもうけ、ともに育て上げたパートナーが唐突にいなくなるというのはたとえ関係が冷え切っていたとしても、やはり心にくるものがあった。


蛇口を捻り、電気ケトルに水を注ぐ。食器棚から茶碗を出し、松茸風お吸い物のもとの封をあけた。レンジからは相変わらず鈍い音とオレンジが漏れている。


妻が出ていく少し前から母のボケは始まっていた。初めは軽い物忘れで人の名前や地名が出てこない程度だったが、それが鍵を置いた場所がわからなくなり、明日の予定がわからなくなり、今では自力で食事を作ることもしなくなった。五年という歳月は、認知症の人が自分で生活できなくなるには十分な期間だ。デイサービスで家を空けている母を思うと、再びため息が出た。

けれど母の症状を別にすれば、生活は驚くほど変わらなかった。もちろんこれまで妻に任せていた家事は自分でしなければならなくなったし、なんというか普段の生活リズムみたいなものに多少の変化はあったのだが、掃除も洗濯もやってやれないことはないし、食事だって外食と店屋物を挟めば苦痛はない。むしろ生活の自由度が上がったのではないかと思うこともあるほどだ。後生大事に守ってきたつもりだった家族の生活というものは案外簡単に崩壊するし、また崩壊してもそれが即座に私個人の生活の崩壊に繋がるわけではないことも悟った。


電気ケトルがぶくぶくと音を立てて、ランプが消えた。百度近い熱湯を茶碗に注ぐといかにもインスタントな香りが鼻腔をつく。シンク下の棚からスプーンを取り出した。


一昨年大学を出て大手メーカーに就職した一人息子は隣県に住んでいるが、ほとんど帰ってこない。妻がいた頃は大学近くに下宿していて、かなり遠かったはずだが今よりも顔を見ていたような気がする。妻とは頻繁に会っていのだろうか、それすら私にはわからない。おばあちゃん子だったはずの息子も、認知症の母には寄り付かず、もちろん私に顔を見せてやろうという発想もない。

今になって、私の人生はなんだったのだろうと思うことがある。真面目に勉強し大学を出てそれなりの企業で定年近くまで働き上げた。結婚し二世帯が住めるだけの家を買って子供を大学まで出した。社会的に見れば成功者とは呼べないかもしれないがそれなりの地位は築いているのではないだろうか。なのに、それなのに、私は今日もニチレイのピラフを温めている。


レンジがチンっと音を立てた時、松茸風お吸い物は少し冷めていた。

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