にんげんさんか

ククリネック

第1話 春風とともに

建て付けの悪い扉を開けると、懐かしい匂いが鼻を突く。雑然と並んだ木の机と椅子は記憶の中のそれに比べてものすごく小さく見えた。

教室の真ん中あたりに四角く並べられた椅子の一番端の方に座ると、目の前の黒板に『〇〇さん小中合同支援連絡会』と書かれているのが目に入る。この春、中学生になる重度の知的障害を持った女の子の小中学校の申し送りのために開かれた会議に、私はデイサービスの介護担当者として参加している。


訪問介護を行う事業所で働き始めて四年目になる。関西の女子大の教育学部を卒業し、そのまま介護の道に入ったことに特別の意志や使命感はなかった。単に資格職であるということと、少子高齢化の中で職にあぶれることはないだろいうという安直な理由で今の事業所に就職した。

認知症を患ったお年寄りや、重度の障害を抱える若者に相対するのは想像以上に負担が大きい。始業から終業までいくつもの家庭をまわり食事の準備や入浴、排泄の支援をする。もちろん経済的に裕福な担当先ばかりではないので、ケアマネージャーが決めた時間内で仕事を完遂する必要があるし、気を抜けば死に直結するような仕事だ。薄給の中でなんとか丸三年働いてはいるが、もし就活当時の自分に会えるなら介護だけはやめておけと伝えたいくらいには、心身ともに疲弊している。


窓の向こうのグラウンドで掛け声を交わしながら白球を追いかける小学生たちをぼーっと眺めていると、教室の扉がガラガラと開いて何人か入ってきた。その中には見覚えのある顔もある。二番目に入ってきた頭の禿げ上がった小太りの中年は確か女の子のかかりつけ医だったと思う。何度か訪問先の女の子の自宅で顔を合わせたことがあるが、無愛想な印象の医者だ。もう少し愛想良くすればいいのにと思った記憶が蘇った。

ややあって女の子の父親が入ってきた。細身で実年齢よりもやや老けて見える彼の顔はいつ会っても優れないように見え、元々そういう顔なのか、それともやっぱり気苦労から来るものなのか私には判断できなかった。彼は入ってくるなり一堂に介した関係者に向かって深々と頭を下げた。頭頂部が少し薄くなっているのが見える。

「本日はお時間をとっていただきありがとうございます」

彼がか細い声で挨拶し、黒板に近い椅子に座るとその隣の中年の女性が立ち上がった。

「皆さん本日はありがとうございます、〇〇さんの担任をしております山田です」

丸顔にメガネの、”いかにも”なその女性教諭は簡単に挨拶した後、座っている我々に簡単な自己紹介を促した。細く開けられた窓からびゅっと吹く風が淡いピンク色のカーテンを揺らす。

一通り自己紹介が終わると、やはり女性教諭が司会進行をしながら申し送り事項が順に伝えられる。介護現場というところは医師や看護師、介護関係者や行政担当者、場合によっては今回のように学校関係者などが協力して個人の対応にあたらなければならず、情報共有が不可欠である。多くの場合、各家庭に対してケアマネージャーがついてその情報の”ハブ”となるのだが、〇〇さんの場合はその担当を彼女の父親がやっている。もちろんはそれは彼女の家族の意向なのだが、父親は日中働いているし専門的な知識があるわけでもないので、私を含めたケアにあたる複数の事業者や医療関係者は情報伝達が十分になされていないことに課題意識を持っている。もっと言えば、意地を張らずに早く専門家に任せてくれればいいのにと考えているわけだ。そういったこともあり、今日の連絡会はお役所の便宜的な開催以上の意味を持っている。


私は彼女の担当についてちょうど二年になる。訪問し始めた頃はまだ幼さが残る少女だったのに最近は完全に思春期に突入していて扱いの難しさを感じている。この訪問先の担当を命じられた時、事務所の上司は「年齢が近い方が何かと良いと思ってさ」と言っていたがとんでもない。微妙な年齢差はかえって微妙な距離感を生んでしまいなんだかうまくコミュニケーションが取れていないのではないかという不安は長く支援を続けている今もぬぐい切れていない。

付け加えて、その不安は私の未熟さだけでなく彼女自身の性格や家庭環境に依拠するところも大きい。訪問し始めてかなり経ってから知らされたことだが、彼女は父子家庭で母親は彼女はまだ幼い時に乳がんで亡くなっている。父親はもちろんフルタイムで働いているので彼女は主に亡くなった母親側の祖父母に育てられたようだが、一人娘ということもありかなりわんぱく、というかわがままな側面がある。私の至らなさを棚に上げるつもりはないが、もしもそういう家庭環境でなければコミュニケーションや、日々の支援についてももう少しゆとりがあったのではないかと考えてしまう。


一連の申し送りが伝えられ、各事業所の担当者から中学校側の担当者、おそらくは担任になる予定の教師にいくつかコメントがなされた後、最後に父親が徐に話し始めた。気持ちの良い太陽に照らされたグラウンドからは小学生たちの掛け声が遠く聞こえてくる。

「皆さん、本日は本当にありがとうございました。最後に私からいくつかお伝えしなければならないことがあります。担当いただいている先生やヘルパーさんには既に伝えてありますが、〇〇の母方の祖父母がこの地域を離れることになりました。高齢で足腰が弱くなってしまい面倒を見られる親戚もおりませんのでホームに入る予定です。ついては皆さんにより負担をおかけすることになるかと思いますがよろしくお願いします」

そういうと彼は少しだけ間を置いて、頭を下げた。ふと小学生たちの掛け声がやむ。休憩にでも入ったのだろうか。

「皆さん、本当にご迷惑をおかけしています。ケアマネをお願いしないことで皆さんのお仕事がやりにくくなっていることも承知しています。週末、娘を施設に預けることができることも教えていただきました。けれど私は、どうしても娘を自分のもとで育てたいのです。皆さんに頼って上でこんなふうに考えていることをお許しください。けれど私にとって〇〇はたった一人の娘なんです」

そこまでいうと彼はまた頭を下げて、さっきよりも強い口調でよろしくお願いしますと付け加えた。


しばらくの間、私を含めてその場にいた誰一人として口を開く人はいなかった。細く開かれた窓からびゅっと風が吹いた。

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