第一章 フミ子と洋介

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「ねぇ、聞いた?平山さんついに結婚だって。」

 分厚いレセプトの本を開いて、今朝方肩のうちみで受診した患者に処方された湿布の点数を探すのに集中していたフミ子は、同僚に話しかけられているのに、ずっと右の人差し指で本の中の1ページをなぞっていた。

「ねぇ、フミちゃんってば!」

 同僚は彼女の肩をぐいっと自分の方に引っ張り、注意を引いた。制服の千鳥格子のベストが肩からずれてしまった。

「もう、何よ。」

 彼女は湿布の点数を探す仕事を中断されたことに眉を顰めてこの噂好きの同僚にやっと返事をした。肩からずれたベストを正しながら

「平山さんが結婚した?」

 と言った。

 同僚は、なんだ、聞こえてたんじゃない、というふうに、ふうと溜息をついて言った。

「そう、あの地味な平山さんがね。女は25過ぎて独り身だったらクリスマスケーキの売れ残りって言うけど、ギリギリゴールインしちゃったのよ。もう嫌になるわ、年越しだけは勘弁って感じ。フミちゃん今25だったわよね?後は看護師の宮本ちゃん、フミちゃんに私だけになっちゃったわね。」

 女性の平均初婚年齢が29歳を上回り、結婚も出産の決定も女性の自由と権利が段々と認められてきた現在では考えられないが、当時は25歳を過ぎて独身でいた女性には家族や親戚から結婚して子供を産むようにと圧力をかけられることが当たり前に行われていた。加えて、フミ子は片田舎の実家に住んで田舎の病院に勤めていたから、30歳を超えた独身女性は変な噂を立てられたりと散々な扱いを受けていた。

「そうだねぇ、、、」

 フミ子はつれなく返事をする。

「フミちゃん、良い人いないの?親戚の久保さん、警察官だったでしょ?後輩とか紹介してくれないの?」

 田舎のコミュニティは狭いもので、誰々の親戚の名前が誰々で、どこで何の仕事をしている、なんてことは皆が把握していて当然のことだった。

 もし、嫁いで離婚して実家に出戻るなどということがあったら、それこそ格好の噂の種になり、瞬時に町民中が知るところとなるだろう。

「私は、、、今は恋愛とかは良いかな。忙しいし。」


 フミ子には苦い恋愛経験があった。20代前半の頃、親友に紹介された男性と付き合っていたが、その親友と彼が裏で関係を持っていたのだ。

 親友と彼を同時に失った挙句、親友は共通の友人たちにフミ子のあらぬ噂話を吹聴していた。

 以来、人間不信に陥ってしまっていて、恋愛なんぞもってのほかだった。

 職場でも必要最低限のことを話すように心がけていた。


 そんなある日の昼下がり、午後の診療に2人組の大学生がやってきた。

 1人がバイト先のパチンコ屋でパチンコ玉を満杯に積んだカゴを3つ持って運んでいる時に手を滑らせて足に落としてしまい、足の甲を強打したというのだ。もう1人は彼と同じパチンコ屋でバイトする友人で、付き添いで来ていた。

「今日はどうされましたか?」

 受付に来た付き添いの大学生はフミ子を見るなり、いきなり無言になってしまった。

「あのぅ、今日はどうされましたか?」

「あ、いえ、その、連れが足怪我しちゃって、、、」

 明らかに挙動不審なその男はフミ子と目を合わせず歯切れ悪く受診の申し込みをした。

 彼女はその様子を怪訝に思ったが、忙しさのあまりすぐに忘れてしまった。

 仕事が終わる頃、また受付に先ほどの挙動不審な大学生が来た。

「あの、、、」

「あぁ、本田さんの付き添いの方ですね。本田さんは入院になるのでお支払いは退院の際に本田さんご自身でされますので大丈夫ですよ。」

「いえ、そうじゃなくて、、、」

 早く帰りたいのに、特に予定はないけどハナキンなのに、、、とモジモジする大学生に若干の苛立ちを覚えるフミ子。つい机の上をトントンと人差し指で叩いてしまう。

「こ、これ!」

 大学生は手の中から紙切れを渡した。

「あの、よかったら連絡ください、、、。じゃあ!」

 そう言って大学生は小走りでガラス戸の出入り口へと去って行った。

 手に渡された紙切れには大学生の名前と連絡先が書いてあった。


 渡辺洋介

 0XXX-X4-XXXX


 そしてその下にメッセージも添えられていた。


 こんにちは、僕はK大3年生の洋介と言います。

 何度かI病院にはお世話になっています。

 初めて見た時からお話ししてみたいと思っていました。

 今日、勇気を出して連絡先をお渡ししました。

 こんな僕でよければ今度、一緒にお茶してください。

 連絡お待ちしています。


 メッセージを読んでいると例の噂好きの同僚がやってきた。

「フミちゃーん、どうしたの?」

「いや、何も」

 慌ててその紙を握って隠したが遅かった。


「ナンパ?よかったじゃん、フミちゃん。」

 同僚に詰め寄られたフミ子は洗いざらい吐いてしまった。更衣室で話していたので周りの同僚たちも聞き耳を立てている。

「いやいや、、、」

「で、連絡してあげるの?」

「うーん。」

「大学3年生だって、かわいいじゃん。フミちゃんも彼氏いないんだし、遊んであげれば?報告待ってるから!」

 そう言うとバブルの頃を彷彿とさせる少し時代遅れなボディコンシャスなワンピースに身を包んだ同僚はブランドもののバッグを掴んで

「私これからT商店街のバーでデートなんだ、じゃあね!」

 と颯爽と更衣室を後にしてしまった。


 家に帰ると母親がちゃぶ台の前に座って茶を啜っていた。

 フミ子の母は40過ぎでフミ子を産んだ。もう70近いせいか、家事の一切をフミ子にさせている。

 上にきょうだいが4人いるが、一番上の兄はフミ子がまだ幼い頃に父と大げんかをしてからと言うもの家を出てそれっきりで、姉2人は大阪に嫁ぎ、兄は結婚して今は近くの別にアパートを借りて家族と暮らしている。

「母さん、父さんは?」

「町内会の飲み会だって。」

「じゃあ今日の夕飯は2人分だね。」


 20時を回った頃、フミ子はお風呂に入りながら今日のことを考えた。

 渡辺洋介、、、

 彼氏いないんだから、ちょっと遊ぶ、、、か。

 どうせこの先結婚する気もないし、いいか。


 お風呂から出たフミ子は麦茶を1杯飲むと、台所を出て廊下の黒電話に向かった。

 渡された紙切れを見ながらダイヤルを回していく。

 プルルルル、、、

 かかった。


「はい、渡辺です。」

「、、、」

 電話をかけたはいいが、緊張していたのと、フミ子は何を話すとか、そんなことは考えていなかったのでつい無言になってしまった。

「もしもし。」

「あ、、、原田です。渡辺洋介さんはいらっしゃいますか?」

「俺ですけど。あの、原田さん?すみませんがどちら様でしょうか?」

 フミ子はまだ洋介に名前を教えていないことに気づいた。

「、、、I病院で今日あなたから連絡先を受け取った、、原田フミ子です。」

「!フミ子さん!?」

 電話口でガチャガチャと耳を刺すような音がした。洋介は驚きのあまり受話器を落としてしまっていた。

「すみません、うるさくて。あぁ、、、えっと、連絡もらえると思わなくてつい、、、」

 それからは長電話になった。洋介は口下手そうに見えて話が面白かった。

 洋介の地元は中国地方で、進学のためにフミ子の住むK県に来たこと、地元での楽しい思い出話をしてくれた。

 1時間ほど話して、来週の日曜日に昼食を商店街の喫茶店に食べに行くことになった。

 話はまだ途切れなかったが、あまりの長電話にフミ子の母が

「フミ!いつまで喋ってるの?電話代が勿体無いでしょ!」

 と言いにきたのでその日は電話を終えた。

 まだ携帯電話が普及していなかったこの頃、一家に1台固定電話があり、実家住まいの者は家族に気を使いながら電話すると言うのが普通だった。特に、実家住まいの若いカップルなんかは彼女に電話したつもりが父親が出てたいそう気まづい思いをするなんてこともよくある話だった。


 そして日曜日、フミ子は夏だったので袖のないワンピースを着て麦わら帽子を被りおめかしして待ち合わせ場所に着いた。

 当たりを見渡すと、長身で痩せ型、白地にトリコロールのラインが入ったポロシャツとジーパンを履いた少し癖っ毛の若い男がいた。

 彼だ。

 合流すると2人は喫茶店に入り、昼食を食べた。

 楽しかった。

 フミ子は久しぶりに男性と一緒に連れ立って歩き、面白い話を聞き、美味しいものを食たことに少しときめいていた。

 ーーそれとも洋介という男性に惹かれていたのだろうか。

 次のデートも来週の日曜日、同じ時間に集合して今度は海にドライブに行こうという話になった。


 月曜日、職場に行くと例の同僚が話しかけてきた。

「結局あの大学生くんに電話したの?」

 同僚はいつになくウキウキしていた。

「まぁね、そういえばこの前のデートはどうだったの?」

 深堀されたくないと思ったフミ子は返事をそこそこに質問を返す。

「えー、聞きたい?」

 人は質問にこうかえす時、たいていそのことについて話したくてうずうずしているものだ。あなたの話を聞くより、自分の話がしたい、と。

「うん、聞きたいな。」

 フミ子は彼女の話を特段聞きたいと思いはしなかったが、彼女が話したいことを話せば自分の話題を忘れてくれるんじゃないかと期待していた。

「ジャーン!」

 彼女の左手の薬指には大きなダイヤモンドの指輪が光っていた。

「おぉ!」

 フミ子はわざとらしく驚いて見せた。というのも、この同僚が結婚秒読みという噂を聞いていたからだ。

「ふふ、来月寿退職するんだー」

 寿退職ーーこの時代、結婚して専業主婦になるのが女性としての幸せと考える人が多かったし、それを求める男性が多数だった。男性は結婚して妻と子供を養い、女性は家庭に奉仕するというのが模範的な家庭像だった。現在では共働きが当たり前だが、当時は共働き、女性を結婚後働かせるというのは夫に甲斐性がないからだーーと思われていた。

 しかし、それを聞いてもフミ子はちっとも羨ましいと思わなかった。せっかく医療事務の資格を取ったし、家で主婦として家事育児をして一生をそれに費やすくらいなら結婚したくないと思っていたし、しても働いて社会の中にいたいと思っていた。

 その日の受付は同僚の結婚の話題で持ちきりだった。バブル経済が崩壊して、不景気になり久しいのにハワイで挙式だとか、相手は地主の長男で不動産業で儲け、裕福なお家柄だとか。それからは、後はフミ子と看護師の宮本さんだけだとかーー。


フミ子はその輪には入らず、一人黙々と患者たちのレセプト(医療費)を計算していた。

いつも来ている木村のおばあちゃんの軟膏は、、、100点と。

湿布は、、、

また分厚いレセプト本を開いて湿布を本の頁を人差し指でなぞりながら探す。

その本の頁は薄い紙でできていたので、小指側がインクで真っ黒になってしまっていた。

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