6 粃

目眩めまいとか起こす可能性はありますから、ひとまずは座ってください」


 その誘導に、はあ、と答えつつも美佳みかは座る。

 その横に、失礼します、とひろが座った。

 あとは緊張した面持おももちの織歌おりかが立っているだけだ。


織歌おりか、始めてください」

「……はい」


 固い表情で一度目を閉じて、深呼吸をした織歌おりかは少し不安げにひろの方を見て、ひろうなずくのを見ると、覚悟を決めたように美佳みか見据みすえた。

 美佳みかとしては、そういう動きをされると、不安がないとは言えない。

 けれど、ひとりかくれんぼで砂嵐のテレビを見つめていた時と同じように、すでどきいっしていた。


「……あれさくなだりのたぎつはやきせ。うつしきつみというつみのあらざれば、あれみましのをもちいでん」


 不意に、美佳みかの鼻先を山奥の渓流けいりゅうや雨を思わせる清々すがすがしいにおいが、ひやりとくすぐる。

 そう思った次の瞬間、へそあたりに、氷のように冷たい何かが差し込まれたような強い違和感を覚えた。


「きゃっ」

「おっと、すみません。そのままで」


 反射的に後ろにりそうになった身体からだを、背中側からしっかりとひろに支えられる。

 いや、逃げられないようにがっちりと身体からだ拘束こうそくされたと言った方が正しいのかもしれない。


 、とその刺すような冷たさが、美佳みかめぐった。


「ひっ」

「大丈夫です、大丈夫です」


 強張こわばった身体からだのがれようとするが、後ろから羽交はがめするように拘束こうそくしたひろはばまれる。

 そして、美佳みかを落ち着かせるようにひろが口にする大丈夫は、歯をけずるにあたって痛い時の歯医者の大丈夫と完全に同じたちのものだった。


「や、やだ」


 まるで、見えない冷たい手に身体からだの内側をさぐられるような感触が気持ち悪いのに、同時に真夏の暑い日、冷え切ったジュースを一気に飲みくだした時のように、えしくさえあるのだ。

 それが只管ひたすらに奇怪で、怖い。


「大丈夫ですって、痛くはないでしょ?」

「いや!」


 自然と目から涙がこぼれる。

 と、見えない手が何かをつかんで、くん、と引いた気配がした。

 何と思うまでもなく、頭の中が真っ白になる。


「や、何、なんで、やめて、!」


 無我夢中で口からころげ落ちたその名前に対して、真っ白な頭の片隅かたすみから奇妙な懐かしさがくと同時に、ぞっと背筋を腹とは別のどろりとした冷たさが蛞蝓なめくじのようにった。


「駄目ですよ」


 ひろの落ち着いた声が、美佳みかをしっかりと拘束こうそくしたまま、まるで言い聞かせるように言う。


「だって、

「嘘!」


 真っ白な頭で、自分でもよく分からないまま、美佳みかくちびるは言葉をつむぐ。

 ただ、が奪われようとしているのだということだけが、わかっていた。


「しーちゃん、しーちゃんはここに、私の」


 泣き声が聞こえる。小さな女の子の。の。青い目で、緑の目で、私を見ている。にらんでいる。のろっている。腹の奥から、赤い糸でぐるぐると巻かれた女の子が、つながってる私を水の底から見ている。白い八木はちぼくをいっぱいに詰めた女の子が、私を見ている。


んですよ」


 それを上書きするように、ひろの落ち着いた声が否定をり返す。


「だって、そこはうろをして普通であるべき、なのですから」


 女の子が泣いて、わらって、白い禾穀かこくいびつい目からこぼれ落ちて、彼女と私をつなぐひたひたとれた赤い糸が――


 ぶつん、と清冽せいれつな見えない手によって、それは容赦ようしゃなく引き千切ちぎられた。

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