1 たかが十円されど十円

「そう、だけど」

「うーん、そっかあ」


 晴人はるとのそばまで来たその人はそう言って、つまんだ十円玉を晴人はるとに渡す素振そぶりは見せずに、じっと見つめている。


「返してよ」

「でも、この十円玉、自販機に入らないんでしょ?」

「……見てたの?」


 うん、と悪びれた様子なく、その人は淡い茶色の目を細めてうなずく。

 左目にかかっている前髪が鬱陶うっとうしそうだ、と晴人はるとは思った。


「何してるのかなって思ってね。夏だから日が長いとはいえ、この時間帯に君ぐらいの年の子が一人、というのは防犯上如何いかがなものかと思うし」

「……あんただって、十分怪しいけど」

「だよねー、わかってる、わかってる」


 晴人はるとの疑念に同調する言葉を口にして、怒った様子も、かなしむ様子もなく、ただその人はけらけらと笑い飛ばす。

 それから少し考え込むようにあごあたりを空いている方の手の人差し指でなぞるように動かすと、口を開いた。


「……大丈夫、僕はちかってキミに悪いことはしないよ。そうだね、信憑性しんぴょうせいを問題視するなら、何かけてもいいけど……?」


 それはまるで、母親が今晩の夕飯は何がいいかとたずねるような軽い調子だった。

 ぽかんと晴人はるとが見上げていると、その人は蓄音機から聞こえる亡き主の声を不思議そうに聞く犬よろしく、軽く首をかしげる。

 完全に答えを待っている素振そぶりだ。


「……いや、別に、そんな」


 今までの言動からして、晴人はるとが提案したものを本気でけるつもりでいそうなのはわかった。

 しかし、何をけさせればいいか、なんてわからない。

 というか、そんなものをこちらにゆだねてくる時点で、胡散臭うさんくさくはあっても、害意がないというのは知れた。


「そう? それならそれでいいけど」


 そう言ってくる声も完全にこちらに任せきっているトーンだった。

 ほんのわずかに、この大人大丈夫なのか? という疑念がく。

 主に、本人がまともな生活できるのか的な意味で。

 そんな晴人はるとの困惑など、どこ吹く風でその人は言う。


「で、この十円玉なんだけど」


 空いている方の指先ではじかれた十円玉が、爪に当たって少し高い響きをともない、かちんと音を立てる。


「返してくれないの?」

「んー、いや、それ以前に、なんだけどね。これ、?」


 見上げた薄く微笑ほほえんだその目に、一瞬だけ鋭い緑の光が見えた。

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