1 Who are you?

「大丈夫ですか?」


 ふわふわと、どこかのんびりした可愛かわいらしい声が聞こえてきたのは上の方からだった。


「……あ」


 その声を聞いて、どっと冷や汗が流れて、真由まゆの視界が涙でゆがんだ。

 全身の力がえて、今まで足りなかった酸素を補給するので精一杯だ。


「うーん、どう見てもそういうことですかね、ロビンさん」

「どう見てもそういうことでしょ」


 ふわふわとした声への返答は真由まゆの下から聞こえた。


「オリカ、ちょっと、この子、どけて」

「……は、すみ、ません」


 どこかとげのある物言いのその声に、真由まゆ九割きゅうわり五分ごぶばかりの申し訳なさと、五分ごぶほどの苛立いらだちを覚えながら、えた腕に力を入れて、下敷したじきにした人の上からなんとか退いた。

 けれども立ち上がるほどの力は入らず、地面にへたりこんだままだ。

 その真由まゆの背に、そっと温かな手が添えられる。


「もう大丈夫ですよ」


 ほわほわとした声にそちらに顔を向ければ、その声の雰囲気にぴったりな、少しはかなげに見えるお嬢様じょうさまぜんとした同じくらいの可愛かわいらしい少女がしゃがみこんで優しく微笑ほほえんでいた。


「ねえ、ロビンさん」


 彼女が視線を向けた先、真由まゆ下敷したじきにした華奢きゃしゃな青年が、銀縁ぎんぶちの眼鏡をかけ直しながら身を起こす。

 無造作むぞうさに地毛だろうくすんだ金髪から砂を払い、眼鏡の奥の端正な顔立ちの割にキツい目つきの青い目でこちらをちらりと見ると、小さくため息をつきながら彼は一つうなずいた。


「ああ、うん、大丈夫だよ、大丈夫」


 投げやりな言い方といい、目つきといい、そのけんの強さを隠そうとはしていない。


「でも、話は聞いた方がいい。オリカ、お願いしていい?」


 砂をはらい落としながら、彼は立ち上がってそう言った。


「一人で大丈夫ですか?」

「……大丈夫じゃなかったら、振り切ってくる」


 オリカと呼ばれている少女が眉間にシワを寄せた。


「それって大丈夫って言わないですよ」

感じ、振り切るだけならできるから大丈夫」


 ひらひらと手を振って、ロビンと呼ばれていた青年はさくさくと砂利じゃりを踏みながら、校舎の裏手に回り込むように歩いていってしまった。


「もー、ロビンさんったら……まあ、あの人の場合、実際のところ過信ではないのでいいんですけど」


 唇をとがらせた彼女が、真由まゆの方に再度視線を向けた。


「立てますか?」

「えっと、なんとか」


 先程さきほどまでの切迫した恐怖は、青年とぶつかった時点で、霧散むさんしていた。

 というか、追いかけて来てすらないのに、何故なぜ、あれほど、自分は怖がっていたのだろう。


「怪我はないみたいですね。なんだかんだ言って、ロビンさんは紳士ですし」


 そう言う少女に手を引かれるようにして立ち上がると、足に違和感いわかんを覚える。

 靴を見下ろして見てみれば、


「あら、左右逆ですか?」

「みたいです……」


 つられて視線を落とした少女に言われて、苦笑しながらそう答えるしかなかった。それほどまでに先程さきほどあせっていたのだと思い知る。

 彼女の肩を借りて、どうにか靴をなおすと、おっとりと少女は首をかしげる。


「さてと、どうしましょうか。貴女あなたから話を聞くように言われましたけど……今この場で、何があったかお聞きして大丈夫です?」


 思わずこくりとうなずいてから、自分も相手も名乗っていないことに気付く。

 なんとなく育ちの良さを感じる彼女のふわふわとした、少女漫画しょうしょまんがぜんとした点描の輪が舞うような雰囲気に警戒心をがれていたのだろう。


「えっと、あの、わたし、この高校の二年生でたちばな真由まゆといいます」


 しどろもどろにそう言えば、彼女もはたとそのことに思い至ったのだろう。ふわりとそのはかなげな容貌に愛らしい笑みを浮かべて口を開いた。

 一昔、二昔前の少女漫画なら花を背負っていたんじゃなかろうか、というような笑顔である。


「ああ、申し遅れました。私は賢木さかき織歌おりかかしこい木で賢木さかきうたと書いて織歌おりかと申します。ええと、こちらのことのあらましもお話しした方がいいですよね」


 うーん、と眉を八の字にして、肩にかけたトートバッグの持ち手を頼りなさげに握りしめ、織歌おりかは少し困ったように続ける。


「……ちょっと説明がしにくくはあるんですけど、でもロビンさんがああ言ってた以上、貴女あなたも完全に当事者ですし……そもそも、この学校の生徒であればすでにお話自体もご存知、かしら」


 小首をかしげて、織歌おりかはそれまでと同じ調子でそれを口にした。


「逆さまの幽霊のお話」


 一瞬だけ、周囲の温度ががり、ぞわりと総毛立そうけだつ感覚が全身に広がり、思わず真由まゆは肩にかけたかばんの持ち手を握りしめた。

 けれど、それもほんの一瞬だけ。

 それは、先程さきほどまで真由まゆを恐怖の只中ただなかに叩き落としていた噂話であり、そして真由まゆが目を合わせてしまったものだった。

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