第3話 花崎さん その2

 彼女の吐息が肌に触れる。その瞬間、背筋が凍るような感覚に襲われる。


「手伝わせてくれるよね」

「ひゃい」


 あそこまで追い詰められてしまっては、彼女に屈する他ない。花崎さんは憑き物が取れたように晴れやかな顔をしている。

 オレは彼女の要望に従い、半分程の書類を彼女に持たせ、残りの書類は二人で抱えて資料室まで向かうことになった。

 オレは花崎さんに先導されながら資料室に向かう。

 彼女はオレに歩幅を合わせているのか、歩く速度はゆったりとしたものだ。

 オレがチラリと横目で見ると、花崎さんは満面の笑みでオレを見ている。

 その笑顔は普段の花崎美咲のもので、さっきまでのような別人感はもう感じられない。


「橘くん、どうしたの? そんなに見つめられると照れちゃうよ」

「あ、すいません」


 無意識のうちに彼女を凝視していたらしい。


「いいんだよ。でも、わたしのことを見ててくれたんだよね?」

「ええ、まぁ……」

「ふふ、橘くんに見られて、嬉しいな」


 きっとお世辞だ。そうに違いないはずなのに、オレの胸は高鳴る。


「そういえば、花崎さんはどうしてここに?」

「うん、わたしは生徒会の資料を取りに来たんだけど、たまたま通りかかったら、橘くんが困ってそうだったから、つい手伝っちゃった」

「そうなんだ。ありがとう」


 花崎さんは生徒会役員も務めており、来年には生徒会長も狙っていると噂されている。

 そんな彼女がわざわざ手を貸すということは、それだけオレのことが気になっているということだろう。


「ねえ、橘くんはどうしてこんなところにいたの?」

「担任から頼まれ事をされて……」

「ふーん……橘くんを扱き使うなんて……始末しなきゃ……」

「始末?」

「ううん、なんでもないよ!」


 花崎さんが不穏なことを呟いた気がしたが、聞こえなかったフリをしておこう。多分気のせいだ。それにしても、まさか花崎さんに助けられるとは思わなかった。

 オレが感謝の言葉を告げると、花崎さんはさらに嬉しそうな表情を浮かべる。

 それからしばらくすると、資料室に辿り着く。


「ここまでありがとう」

「いえいえ、これくらいお安い御用だよ」


 花崎さんはそう言うと、書類の入った段ボール箱を抱えて部屋に入る。

 それにしても、この量は一人で運べる量ではないと思うのだが。花崎さんは優秀だなぁ。

 オレが不思議に思って訊ねると、花崎さんは笑みを深めて答えた。

 その顔はやはり天使のようで、思わず見惚れてしまう。


「じゃあ、一緒に戻ろっか」


 てきぱきと資料を適切な場所に置いた彼女は、オレの書類についてもいつの間にか手伝ってきており、オレが戸惑う間に全て片付けてしまっていた。


「橘くんって優しいね」


 オレは花崎さんと一緒に教室に戻る。その際、オレの頬は赤く染まっていた。

花崎さんはそんなオレの様子を見て、とても満足げな顔をしていた。

 彼女の頬もなぜか赤くなっており、オレたちはお互いの顔を見ることが出来ず、俯いて歩いていった。

 彼女から時々出てくる並々ならぬ雰囲気。逆らったら碌でもないことになりそうであり、藪蛇になりかねないと思ったオレは、花崎さんを下手に刺激しないように細心の注意を払って接することに決めていた。

 そんなオレの気持ちなど露知らず、花崎さんは上機嫌で話しかけてくる。


「今日のお昼、もう食べた?」

「いや、食べてないけど」


 飯を食おうとしたところで急に担任に呼び止められたのだ。当然昼食は食べていない。花崎さんはオレからその情報を聞き、目を爛々と輝かせる。


「それなら良かった! 一緒にお弁当を食べようと思ってね。実は今日も作ってきたんだ」


 花崎さんは鞄の中から二つの包みを取り出す。その大きさは大きめのお重で、明らかに二人分はある。


「よかったら、わたしと二人きりで食べよ」


 彼女は二人きり、をやたらと強調させつつ、こちらに迫ってくる。


「でも花崎さんは友達と食べたいんじゃ」

「どうでも良いよ、そんな奴ら……」


 彼女から出て来たのは底冷えする声で、先ほどまでの明るい様子とは一変している。その変貌ぶりにオレは恐怖を覚える。

 しかしここで断ればもっと面倒なことになると思い、仕方なく了承することにした。

 花崎さんに連れられ、中庭に移動する。日当たりの良いベンチがあり、そこで食べることにしたようだ。


「うふふ、やっと二人っきりになれた」


 彼女はそう言いながら自分の弁当を広げ始める。

 オレは自分の弁当を取り出し、蓋を開ける。そこには定番の唐揚げ、卵焼き、ハンバーグといったメニューが入っている。

 一方の花崎さんの弁当には、彩り豊かな食材が詰め込まれている。見た目だけで美味しさが伝わってきて、食欲をそそられる。

 

「ねえ、橘くんのお弁当から変な臭いがするんだけど」


 可愛らしい仕草でオレの弁当の匂いを嗅いだ彼女の瞳から、いきなり光が消える。

 え、もしかしてあの妹が毒でも盛ったとか? いやでもこれまではそんなことはしなかったし。うーん。


「なんの変哲も無いお弁当だよ」


 能面のような無表情になった花崎さんに、オレは震える声で言う。

 すると彼女は再び光を取り戻し、今度はオレの弁当の中身を凝視する。

 そして何を思ったのか、箸でオレの唐揚げを掴み上げると、それを自らの口に運んだ。

 オレが呆然としていると、花崎さんは咀しゃくし、飲み込む。


「雌の臭い味がする……」

「えっと、雌って?」

「ううん、橘くんには関係無いよ。こっちの話」


 彼女は露骨に自分を隠そうとしており、オレが突っ込もうとしたものの適当にはぐらかされて終わってしまう。

 それから花崎さんは辛気臭い顔で唐揚げを食べ終えると、一転してまたあの笑顔を浮かべる。


「ねえ、橘くん。おかずを交換しよっか」

「良いけど……」

「やったー!」


 花崎さんは嬉しそうに言うと、オレの弁当から大量に奪い取っていく。

 その手際は鮮やかであり、まるで熟練者のようだった。


「橘くんの料理、とってもおいしいね……ああ、雌臭い……こんなの食べたらわたしの夫であるやまとくんが穢れちゃう……」

「ありがとう」


 花崎さんが妹の弁当を褒めてくれるので、素直に嬉しい。たまに俯いてぶつぶつ言い出すのは怖いがそこは触らない方が良いだろう。

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