愁恋

島本 葉

第1話(完結)

 頭の上からじりじりと照りつける日差しが鬱陶しかった。

 ずっと続く田舎道には他に歩いている者はおらず、言いようの無い孤独が僕を押さえつけていた。吹き出る汗はシャツを背中に張りつかせ、一層不快感をあおる。子供の頃は何も考えず走り回った道。はしゃぎまわった季節。いつの頃からか、外で遊ぶのが億劫になって、夏は一番苦手な季節になっていた。

 道は平坦に続いていて、バスの轍の跡が青々とした雑草を左右に押し分けている。ぼんやりと熱気を伴った風が首筋をなでてゆく。そうして歩いてゆくと、そこかしこに、懐かしい風景が広がっていた。

 この道の先には、実家があった。

 生まれた頃からずっと暮らしていた家。大学に進学して家を出たのは三年前で、その間、この道を通ったのは二回くらいだろう。帰省するのが嫌だったわけではない。特別な理由も思いつかない。新しい生活に慣れるにつれ、町の便利さが身に馴染むにつれ、自然と足が遠のいたんだと思う。しかし、今回は帰ってこないわけにはいかなかった。

 黙々と前を見て───しかしぼんやりとして景色は認識していないが───僕は歩き続ける。

 従姉の結婚式が明後日に控えていた。


「ただいま」

 久しぶりにくぐった実家の玄関はやはり懐かしく、うれしかった。しんと静まり返っていて、外の暑さも少し和らいだような心地がする。廊下に上がりこんでから、なんとなく靴を揃えに戻った。靴を揃えるなんてことは、普段なら気にも留めないことだった。友人の家に遊びに行ったときにさえ、そんな行動をとった記憶もないのだが、今日はなぜか気に懸かった。そうしていると、背中から声が掛かる。

「あら、早かったね。お帰り」

 僕はなんとなく母の顔を見るのが気恥ずかしくて、背中を向けたまま返事をした。

「学校は?」

「一段落ついたから、早めにきた」

 母はぺたぺたとはだしの足音を廊下に響かせて、台所に行く。

「あんた、ちょうどいいとこに戻ってきたね」

 後について台所に入ると、テーブルの上の硯と墨がが目に入った。母の口調はこれから頼みごとをするぞ、という気持ちを覗かせていて、それは子供のころからよく馴染んだものだった。

貴雄たかお、確か習字得意だったよねえ」

 それは確認という感じではなかった。もう硯の前の席は僕のために空けられていた。

「何を書くの?」

「祝儀袋だよ」

 これ、と言わんばかりに、ひらひらと飾りのついた祝儀袋がテーブルに置かれた。結婚祝い用だからか、普段見知った物よりも、幾分豪華な色使いの袋。

「御結婚御祝って書いておくれ」

 筆を持つのはやはりこの家に住んでいた頃以来だ。肩に下げたままだった荷物を下ろすと、ひとつ息を吐いた。

 書道は小学校の頃から、高校の終わりまでずっと続けていた。きっかけは、従姉だった。今度結婚する母方の従姉は家も近く、子供の頃からよく一緒に遊んでいた。あるとき従姉の家に遊びに行くと、彼女は黙って硯に向かっていた。その真剣なまなざしと、墨を静かに擦る動作がえらく神秘的なものに見えて言葉を掛けることができず、黙って見とれていたのが僕が書道に触れた最初だった。

「墨を擦るのは、やっぱり必要なことなんだよ。自然にわかるようになるよ」

 僕が用意した墨汁を使おうと言ったときに、やさしく微笑んでそう言った従姉。墨を擦るのは根気が要るし、なかなか濃い色になるまでにはいかない。ただ楽をしたかった僕は、そのときは彼女の言葉に不満だったような気がする。

 電話をもらったときも、ここに帰ってきたときでさえ、従姉が結婚するという実感はあまり無かった。ここで、硯と墨に向かっている今が一番強く感じられる。僕の中にある種の感情が固まりつつあった。

 息をひとつついて、僕は墨を手に硯に向かった。

 今なら、彼女の言っていたことがわかる気がした。



 夕食を終えて風呂に入ると、これと言ってすることがないことに気づいた。田舎の夜である。こんなことなら、読みかけの文庫を持ってくるのだった、と思ってみたところで、叶うはずもない。

 壁の時計は8時を回ったところだった。寝るには早すぎる時間。高校生の僕はどんな生活をしていたのだろう。今の生活では、この時間には家に帰っていることの方が少ないのではないだろうか。

「ちょっと、出てくるよ」

 台所の母に一声掛けてから、草履を引っ掛けて外に出た。昼間の暑さの余韻はまだ少し残っているが、澄んだ空気と緩やかな風が心地よかった。見上げると、月は雲に隠れてはいたが、空は十分に明るい。真っ暗ではなく、どちらかと言うと蒼い様子。周囲に音はなく、しんと広がる静寂が風呂上りの火照った身に染み入った。

 いやでも、町の空と比較してしまい、後ろめたいような気になる。

「貴雄君」

 なんとなく子供の頃によく遊んだ川に足を運んでいる途中で、僕を呼び止める声があった。

「貴雄君だよね、久しぶり」

 振り向くとショートカットの女性がこちらを見て微笑んでいた。髪型はあの頃とは違うが、その微笑みは従姉に違いなかった。

「うん。久しぶり」

 ぎこちない笑みを返すと、彼女はとことこと走るように、僕の隣に並んだ。ふわりと、夜の風に乗って、柔らかい匂いがした。

「ずいぶん会ってなかったよね。五、六年かな?」

 話すときに、両手の指を絡ませる癖は相変わらずだった。従姉が町の大学に行ったのが、僕が中学二年の頃。ずっと一緒に遊んだ彼女とも、それ以降ほとんど会う機会が無かった。最後に会ったのは僕が中学を卒業する年の正月だった。彼女が帰省していた折に会ったのが最後。ちょうど入れ替わるように町に出た僕は、それ以来従姉と顔を合わせていなかった。

「そうだよ。五年振り」

 僕はしっかりと何年振りかを覚えていた。

「そっか、そんなになるんだね」

「うん」

 それきりお互い口を開くことなく、肩を並べて夜の道を歩いた。草履の土を踏みしめる音がやけに近くに聞こえるようで、不思議な静寂だった。

 しばらく行くと、川に出た。小さい頃、よく遊んだ川。泳いだり、釣りをしたり。その思い出の傍らには、いつも彼女がいた。

「こんなに小さな川だったんだね」

 そこは確かに懐かしい場所だったが、記憶にある姿とは幾ばくかの違いがあり、自然と僕は声に出していた。あの頃は、広くどこまでも続いていく様に思えた流れは、今では僕の視界の中にきっちり収まっていた。隣で従姉が微笑んでいるような気がして僕は横目で彼女を見た。しかしその表情は何も映してはおらず、この小さな川のように、ひっそりと静かだった。

「学校は楽しい?」

 緩やかな流れを見つめながら、彼女が口を開いた。

「まあ、そこそこは。充実してる、と思う」 

「今3年だよね。一番楽しい時だね」

「うん」

 何気ないやり取りを続けながら、僕は川の水を掬った。水は冷たかった。その冷たさに、こわばっていた身体が目を覚ましたような気がした。従姉も同じようにさっと右手を川の中に差し出し、掬う。うっすらと、マニキュアの朱が月明かりに揺らいだ。

「明日、時間あるかな?」

 不意に彼女が尋ねた。もとより予定など無く、あいまいに肯く僕に従姉は「花火があるんだけど」と指を絡ませながら笑った。

「花火?」

「そう、花火。よくやったよね、二人で」

 確かにそうだった。ここで過ごした夏は、必ずこの従姉と花火を楽しんだ。どの夏だっただろうか。初めて仕立ててもらった浴衣に袖を通して、二人で花火をしたこと。あの頃は長かった髪を結い上げて笑っていた従姉。その姿に見惚れた事。照れ隠しに、持っていた手花火を振り回したこと。ずっと忘れていたそんな思い出がふわりと掠める。

「僕はいいけど、そんな時間あるの?」

 なんと言っても明日は前日。明後日になれば彼女は。

「うん。大丈夫」

 それから、どちらとも無く僕たちは歩き出した。少し雲が切れていて、三日月がやわらかい顔を覗かせている。少し後ろを歩いて、僕は彼女の背中を見ていた。ふわふわと左右にゆれる肩が少し寂しそうで、儚げに感じる背中だった。

 彼女は今何を思っているのだろうか。時折彼女の白い手に映える朱に五年の歳月を感じずにはいられなかったが、それだけではない。ここにいる従姉は僕の知らない女性のような、そしてずっと遠くに行ってしまうような、そんな感じがした。

 少し歩幅を広げて、隣に並ぶ。

「結婚、するんだね」

 やっと出したことばは震えた。気づかれなかったかと、僕は従姉を見たが彼女はやさしく微笑んでいた。

「うん」

 僕は空を見上げる様につぶやく彼女の横顔に見とれていた。

「おめでとう」

「ありがとう」

 そう言った従姉は記憶の中の彼女よりもずっと大人の表情だったけれど、確かに僕の知っている彼女だった。僕は少し、肩の力を抜いた。

 やがて、家が近づいてきて、子供の頃に遊んだ帰りにいつも別れた辻に出た。僕も、彼女もここで別れるつもりだった。

「そういえば」

 じゃあ、と手を振りかけた彼女が僕の声に止まる。僕は言葉を継いだ。

「こんな時間に、どうして外に出てたの?」

 不意に頭に掠めた疑問。 

「散歩」

 そう応えて従姉は口元を緩めた。


 翌日も相変わらず同じような暑さだった。町の生活に慣れすぎた僕は、眠い眼を擦りながら朝食を済ませ、ごろん、と畳の上に寝そべっていた。開け放した窓から入り込む風も、暑さを和らげる程度にしか役立っていない。じっとしているとじわじわと汗ばんでくるのが嫌で、少し腕を動かしてシャツに風を通す。

 もちろんこれといってすることは無く、このまま昼寝しようかとも考えたが、頭の中では昨夜の従姉の表情がこびりついて離れなかった。

 時折覗かせた儚げな表情が、僕の心を重たくしていた。こんなに重たい気分のときは、大抵考えても好転はしないことを僕はこれまでの経験から知っていた。それでも考えてしまう自分も。

 居心地が悪くて、何度も寝返りをうっていると、母が顔を出して少し顔をしかめた。

「することが無いんだったら、庭で仕事をあげるよ」

 これもまた、提案という口調ではなかった。この暑い中庭に出るのは躊躇われたが、どこにいても暑いことには変わりない。じっと考え事をしていても、出口が無いことを知っていた僕は母親の言葉に従うことにした。

 庭に出た僕を待っていた仕事は、はたして草むしりだった。

 見上げると太陽が睨みつけていた。



「それで、ずっと草むしりをしてたの?」

 くすくすと、喉の奥で笑いながら浴衣の袖を揺らせた。藍色の浴衣に身を包んだ従姉は火を点けていない花火をくるくるともてあそぶ。

「叔母さんらしいね」

 僕のほうは浴衣を着ず、普段着のままだった。ろうそくから何本目かになる花火に火を点ける。始めは穏やかにちりちりと、そして次第に大きな花を咲かせるように、僕を照らす。

「草むしりがあんなに疲れるものだなんて、忘れてたよ」

 昨日とは違い、自然な口調で話せた。自然に笑えた。今日の従姉は夕べの儚げな雰囲気は無く、よく知った優しく明るい彼女だった。

「お疲れ様」

 もてあそんでいた花火に火を点ける。僕の手の花火は次第に消え、入れ替わるように従姉の手から火花が走った。映し出された横顔が、揺れる。

 しばらく無言で花火を続け、点いては消え、点いては消える花火があたりに火薬のにおいをつんとさせていた。

「明日結婚するって、どんな気持ちなの?」

 昨日からわだかまっていたことを口に上らせた。聞いておきたい気がした。ただ、従姉の顔を見ることはできずに、視線は小さい手の中で咲いた花火に向いてた。

「そうねえ」

 ふわりと揺らめく。

「やっぱりうれしい、かな」

 少し逡巡したあと、明るく応えて僕を見た。目をそらすことができずに、従姉の顔を見つめたまま、少し惑う。うれしい以外にも飲み込んだような言葉を、問うてもいいものだろうか。

「貴雄君は、彼女とかいる?」

 逆に聞かれた。

「いるよ」

 覗き込む瞳に僕は目をそらせて答えた。

「大学の子?」

「そう」

「年下?」

「同じ、かな」

「結婚したいと思う?」

 足元に散らばる燃え尽きた花火をを見ながら、聞かれるままに答えていたが、ことばに詰まった。結婚? 僕は今付き合っている彼女と結婚したいのだろうか? 別れることは考えたことは無い。漠然と、付き合っていくその先に結婚というゴールがあるのかもしれないとは思っていたが、現実に考えたことは無かった。まだ、ずっと先のことのような気がして。

「まだ、わからない」

 声には力がこもらなかった。

 最後に残った線香花火に火を点す。僕たちの花火の終わりはいつも線香花火だった。くすぶりながら、火薬に移った火は、勢いよく四方にはじける。従姉はゆっくりと言葉を紡いだ。

「結婚はあがりではないと思うの。ふりだし」

 だから不安も期待もいっぱいある。従姉の瞳はそんな風に言ってる気がした。

 ちりちりと、花火が小さくなっていく。

明子あきこ従姉さん」

 僕はこの従姉のことが好きだったのだ。幼い恋ではあったが本当に好きだったのだ。こみ上げてくるものを堪えて顔をあげると、大好きな従姉の笑顔がそこにあった。

「やっと名前呼んでくれたね。忘れられてるのかと思ったよ」

 線香花火はか細い火花を散らせた。

 ゆっくりと玉が落ちた。

 


 その夜、僕は昔から馴染んだ小さめの硯を取りだし、静かに墨を擦った。澄んだ水に次第に墨が溶けて、冴えるような墨液に変わっていくにつれ、あたりはしんと静まった。右手に心地よい感触を覚えながら、ゆっくりと擦る。

 真っ白な半紙に、伸びのある感触が楽しかった。静寂の中に筆の擦れる音だけが聞こえて、心を晴らしていく。

 息をくっ、と止めて一気に。筆をはらい、終筆。

 溜めていた息をゆっくり吐き出す。

 僕は立ち上がると窓を開けた。心地よい風が、滑り込んでくる。空は晴れていて、月が青白く輝いていた。


 この夜を、彼女も見上げているのだろうか。




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