28 オールドローズ

 彼女が「椎名ゆら」であることを知ったとき、動揺することはあれども「好きだよ愛してるよ、だって俺たち恋人だもんね」みたいな吐き気のするような感情は出てこなかった。もしかしたら、冷静ないい子に洗脳された俺は、泣きながら縋る椎名ゆらに堕とされたのかもしれない。でも、普通に考えて俺が「瀬名裕太」だと知った状態で彼女は俺に近づいてきていた。何らかの目的があって、俺のことを騙していたのだと思う。自分が殴り潰された相手に恋なんてするか。普通に考えておかしいだろ。


「好きだよ」


 その言葉は今まで吐いていたどの言葉とも違った。

 「あたしも」きっと彼女の返答もあの日から変わったのだと思う。

 俺は妹を見殺しにした椎名ゆらを許すことはできないし、俺のことを騙して近づいてきた笹原ゆらのことも許すことはできない。けど、作り上げられた綺麗な人格の俺はそれでも彼女を愛していた。気持ち悪いと思った。彼女の本意も知らずに口だけの「好き」に騙される。彼女の正体が分かった時点でもう賞味期限だったのに、俺はそれでも手放したくなかったらしい。馬鹿すぎて笑える。


「だからさ、裕太がほしいならセフレ作ってもいいよ」


 地雷はその日、踏み抜かれた。もう一人の優しい俺が餓えて死んでいったのだ。唐突な彼女からの解放宣言とともに、俺は瀬名裕太の主軸となった。脳内は彼女の目的を知ること、彼女への殺意で溢れかえっていた。


「あたしだって、別れたくないから言ってるんじゃんっ」


 彼女の発言にはおかしなことばかりだった。今までは簡単に聞き流せていたはずのことが、小さな針がチクチクと気になって仕方がない。


「裕太はこんな役立たずをずっと愛せるの?」

「――愛せるよ」


 俺は真実を知るまで、こいつを殺すまで彼女を手放すという選択肢を選ぶつもりはなかった。彼女の口から出る「別れたくない」はまるで本心から言っているように聞こえたし、この日からも彼女の態度は変わらなかった。深い付き合いが消えただけで、彼女を真剣に愛していたもう一人の俺の精神が限りなく擦り減っていることだけが分かる。


 そんな中、俺の前にひとりの女が現れた。名前は三宅杏奈というどこかの資産家の令嬢か何か。いつも綺麗な服を着て、使用人に送り迎えをされる明らかに俺がかかわりを持つことがないだろうレベルのお嬢様。何がきっかけだったのか分からない。俺に好意を向けてきたのはすぐにわかった。異常なほど強烈な猛アプローチに驚きはしたものの、彼女のことを良く調べてみるとゆらと同じ学部の生徒だということが分かった。彼女が何か裏で手を回している、という事実がまた俺の頭をおかしくした。


「二番目でもいいんです」

「……えっと。その」

「付き合うとかまだ考えられないかもしれないけど、友達からでもいいんです」


 最低な俺は彼女を利用することしか考えていなかった。笹原ゆらがどうして俺に再度近づいてきたのか、知りたかったから。ゆらだって公認してるんだからいいじゃないか、使えるものは全部使ってしまえばいい。俺の考えと、ゆらを愛していたもう一人の俺の考え方は対極的だった。

 うまく彼女をこちらの手中に落としたタイミングで「君と付き合うことはできない」と勝手に俺の口が動いたのだ。言う予定のなかった笹原ゆらとまだ付き合っている話、三宅杏奈を本命にはできない話、今まで俺のやってきた努力はすべて無駄になった。目の前でびっくりしている三宅杏奈に、俺はどう声をかければいいのか分からなかった。彼女とは数日連絡が途絶え、その後「話したいことがある」と俺のもとに連絡が来た。俺の知りたかった笹原ゆらについての話だ。


 

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