27 チューリップウッド

 それは地獄だった。何度も繰り返される「あなたは純粋でとてもいい子」という言葉の呪い。まるで、そうでなければいけないみたいに、俺を縛り付ける。

 いなくなった人を思い出す暇もなく、俺は俺であることを否定され続けた。好き勝手することは許されず、親はもう一人しかいない息子をどうにかまともにしたかったんだと思う。

 いい子じゃないと存在をゆるされない世界だった。

 カウンセリングでは、変われるのは子供のうち。今からでも間に合います。吐き気がするような綺麗ごとで溢れていて、俺は自分の奥深くにある感情をすべて押し殺された。家に帰ると親は口をきいてくれない。勉強でいい点数をとって、まともな友達を作って、バイトをして家にお金を入れる。ゆっくりと俺は俺であることを諦めて、そしてゆっくりと親はいい子の俺を受け入れた。そのほうが親は喜ぶし、きっと楽なんだ。俺は洗脳されることを甘んじて受け入れた。妹のことを忘れて生きることの方が息がしやすかった。




「今日は本当にありがとうございました。あたし、笹原ゆらです」


 ゆらに再会した日、俺はもちろん彼女が椎名ゆらであることに気が付かなかった。俺はもう過去の記憶を思い出すことはやめたし、それでまたあの地獄を見ることが怖かった。ゆらに近づいたのは、純粋に可愛い女の子だと思ったから。それ以上でも以下でもない。ぎこちない笑顔には気が付いていた。俺のアプローチを何度もかわそうとする姿勢に脈はないのだと思ったけれど、一か月粘った末に付き合うことになった。彼女は甘えたがりのわがままお嬢様みたいな性格で、付き合ってからは本当に幸せな毎日が続いた。あの日までは。


 綺麗に洗脳がとけた日。正直、地獄だと思った。思い出したくない記憶が嫌になるくらいに鮮明に脳裏に浮かぶ。美咲が小さな泡になって消えていく瞬間を。俺の腕を引っ張って離さない椎名ゆらを。俺が怒り任せに殴ったあとのヒリヒリとした拳を。目の前にいる自分の恋人があのときの自分が傷つけた人間だなんて想像もしていなかった。知らないままでいたかった。

 このとき、俺はゆらとの関係はもう終わるんだなと半分諦めていた。


「椎名ゆらなんか知らないよね」「裕太が好きなのは笹原ゆらでしょ」


 ゆらの声は震えていた。椎名ゆらを思い出しながら、俺は目の前にいる恋人の笹原ゆらの泣きそうな顔を見ていた。


「あんな奴のこと、忘れちゃった方がいいよ。そうだよ、裕太ならできるよ。忘れよう。だいじょうぶ、あたしがいるから。忘れられるよ」


 毎日受け続けたあの洗脳を思い出す。俺は笹原ゆらのいい恋人であることを求められていて、きっとそのほうが楽なのだと知っている。「好きだよ」と俺が言えば、彼女はきっと「あたしも」と返す。それがどれだけ歪でおかしなことでも、俺は彼女のことが好きだったし、彼女も俺のことを好きでいてくれた。

 きっと、このままの綺麗なお話だったら俺は後悔なんてしなかったのだろう。



「んなわけねーじゃん。むこうは俺があのときの幼馴染だって気がついて近づいてきたんだぞ」

「美咲を見殺しにしたのはあいつだろ。好きだから許せるのかよ」

「お前にとって妹ってそれくらいの存在だったのかよ」


 洗脳はあの日、とけてしまったのだ。

 俺は俺であることを許してしまった。俺の記憶ごと、俺は優しくて理想の恋人をであることを「演じる」のが苦に感じるようになった。ゆらを好きな感情と、ゆらを恨んでいる感情と、ゆらがどうして俺に近づいてきたのか知りたい感情と、ゆらを殺したいという復讐心。全部が入り混じって、俺は自分が誰なのか分からなくなってきていた。


 正直、あの日からのゆらの行動は奇怪なものだったし、俺は彼女が何を考えているかよく分からなかった。俺は自分の奥深くに眠るゆらへの殺意の衝動を抑え込むので必死で、彼女のことを理解しきれなかった。

 彼女は結局、俺が手にかける前に自ら命を絶った。いろいろな仕掛けをほどこして、最後に残したのは「許さない」という言葉。何に対してそれを言っているのかが俺は理解できなかった。俺がゆらを殺したいくらい憎んでいることがばれていると思って怖かったし、彼女は言った。「秘密は全部親友に吐いてあるから安心してね」大きな爆弾を残して彼女は去っていった。その日、彼女は死んだ。


 秘密の正体は何だったのだろう。

 ゆらはどうして死んでしまったのか、悲しい感情に浸っている間もなく、もう一人の俺が暴れだす。気が付けば、俺はゆらの親友である「桐島愛莉」という存在に辿り着いていたし、彼女のもとに向かっていた。

 どうしてゆらは死んでしまったのだろう。ゆらは俺のせいで死んだのだろうか。ゆらは俺が殺意を持っていたことに気が付いていたのだろうか。いろいろな思考が駆け巡りながら、俺は桐島愛莉という存在に対峙した。そのときの記憶はやっぱり途中からおぼろげだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る