26 ゼファー

 叶うならあの日に戻りたい。あの夏の幸せだった日々にもう一度戻りたい。

 戻れない。わかってる。俺はあの日何もできずに小さな泡がぷつぷつと目の前で消えているのを呆然と見ていた。俺の腕に必死にしがみつくゆらに怒りが抑えられなかった。あのまま俺が妹を助けにいっていても二次災害になってただけ。大人になってそう理解できても、そのときは冷静になれなかった。

 助けられたはずの命を目の前に、それを阻害した椎名ゆらという女を許せなかった。憎くて憎くて、妹が死んだのは彼女のせいだと思った。子供の俺は怒りを自制できずに暴れた。俺は悪くない。悪いのは妹を殺したあいつだ。

 ゆらを何度も何度も力いっぱい殴って、このまま死んでしまえとすら思った。右手の拳の皮膚が破けて血が出て、俺はようやく自分が泣いていることに気づいた。彼女を殴っても無意味だ。妹はもうかえってこない。

 近くにいた大人たちに止められて、俺は父親に大きなたんこぶができるぐらいの力で殴られた。「馬鹿野郎」父さんがどうして怒ってるのか、分からなかった。美咲が溺れて死んだのはこいつのせいなのに、助けにすらいかせてくれずに邪魔だけして、俺は目の前で大事な妹を失った。怒るのは普通のことじゃないのか。父さんだって大事な娘を奪ったこいつが憎いんじゃないのか。

 じゃあ、この心の中に生まれた憎悪はどうやって消化すればよかったのだろうか。目が覚めたとき、俺は病院の中にいた。

 先生は優しく俺に問いかける。それはカウンセリング、という名の「洗脳」だった。俺は瀬名裕太という名前の新しい自分を作ることで、息をすることを許される。


「解離性同一性障害とか、なのかなって」

「なんだっけ、それ。多重人格てきなやつ?」

「そう。初めて会った日もなんか違和感があって、普通にしゃべってたはずのあなたからだんだんと圧があるような話し方で責められて」

「俺は別に人格が二つあるわけじゃないよ。桐島さんのいう違和感ってたぶん洗脳によって作り上げられた俺の一部だから」


 桐島愛莉は俺の話を軽い相槌をうちながら聞いていた。前に話した時もそうだったけれど、同じ年齢というわりに落ち着いているような気がした。彼女がどこまでゆらのことを知っているのか、俺も彼女のことをゆらから少し話を聞いたぐらいだったからどういう風に会話を続ければいいか困惑していたのかもしれない。

 

「ゆらは、あなたのことが好きだったなって最近そう思うようになりました」

「じゃあ、なんで他の女の人と付き合ってもいいよとか浮気しても許せるよって話をしたんだと思いますか。それって俺のこと本気で好きだったってことと矛盾してません?」

「……二人の関係に何があったのか、私は知りません。だけど、三好さんを含めて考えるとゆらは死ぬ前に何かをしようとしていたんだと思います」


 桐島愛莉は俺の隣にすとんと座り「右手を開いて」と囁いた。彼女の言葉の通りに右の掌を広げると、ぽつんと皮膚に冷たいものが落ちた。指輪だった。ゆらの誕生日にプレゼントしたシルバーのペアリング。彼女が死ぬ前、数回会ったけれどいつもつけていたその指輪をつけていないことから、俺はもう切り捨てられるんだなと半ば諦めの境地に立たされていたことを思いだした。なんで桐島愛莉が持っているのだろう。


「これ」


 指輪を手にした瞬間、桐島愛莉が大きくため息をついた。俺の反応を見て楽しんでいるようにも見えた。やっぱり、ゆらは彼女に何かを伝えていたんだと思う。俺はゆらが望むように、ゆらのハッピーエンドのために尽力したのにまだ傷つかなくてはいけないのだろうか。俺には誰も正解を教えてくれないのに。


「あげます、それ。ゆらの形見です。本当は私にくれる予定のものだったっぽいけど、私が持っててもおかしいし、瀬名さんがゆらのことを殺したわけでもなさそうだし」

「俺がゆらを殺すなんてこと」


 次につながる言葉は上手く出てこなかった。そんなわけないじゃないですか。俺はゆらの恋人ですよ。ゆらのことを愛しているのに殺そうとかそんな感情を抱くわけないじゃないですか。綺麗ごとを心の中でいくつも並べて唾と一緒にごくりと飲み込んだ。

 

「死んでほしかった。俺は、ゆらに」


 美咲のことを思い出すと、俺は自分が自分ではなくなる。もう一人の自分がいるわけではなく、カウンセリングという名の洗脳で作り出された、人に望まれたいい子の「瀬名裕太」が悲鳴をあげる。俺は椎名ゆらを殺したいほど憎んでいるくせに、笹原ゆらという同一人物を愛してしまった。最低最悪な馬鹿なんだと自覚をもって、生きている。ゆらが死んでしまった以上、本当の俺の目標はなくなって、生きる意味もない。もう一人の作り上げられた俺も好きな人を失った。


 俺には何も残されていない。

 爆弾は跡形も残さず綺麗に爆発して、俺を一人の人間に戻してしまったのだ。


 

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