3 優しい洗脳

 裕太と一緒にいる時間は幸せで、余計なことは全部忘れた。裕太はあたしのことなんか思い出さない。あたしは彼の恋人の「笹原ゆら」であって、それ以上でも以下でもない。そう思い込んだ。そうしないと罪悪感で心が病んでしまいそうだった。


「好きだよ、ゆら」


 部屋で借りてきた映画を見ながら彼が言う。その言葉をあたしはあと何回聞けるのだろうか。考えたくないことが頭に浮かんでは消えて、そしてあたしは無理やり笑顔を作った。


「あたしも」


 あたしの声が震えてることなんて彼は気づかないだろう。一生、きづかないでほしい。あたしはこの先、裕太を一生騙し続けるのだろうか。彼の温もりに触れるたびに頭がおかしくなりそうで、心臓のあたりがぎゅっと痛くなった。

 このままこの痛みで死んでしまえたら、あたしが幼馴染のあいつだってばれないまま死ねたら最高なのに、変なことばかり考えてしまう自分に嫌気がさす。あたしはぎゅっと目を瞑って眠りについた。ずっと現実逃避をしていたいのだ。



 それは、裕太があたしの部屋に泊まりに来た日のことだった。

 中学時代にお世話になった先輩からの結婚式の招待状が実家に届いたらしく、お母さんが食料と一緒に送ってくれた。先輩はあたしの両親が離婚したことなんか知らないから、もちろん名前は「椎名ゆら」と昔のままの名前で書かれていて、裕太は偶然あたしと一緒にそれを見た。

 それを見た瞬間、裕太は静止してこちらを見て静かに「椎名って?」と当然の疑問を吐いた。あたしは動揺していたのかもしれない。脈打つ速度がどんどん早くなって、脳が百八十度回転して、焦っている自分の姿を見られたくなくて顔を伏せた。


「ちがう」


 なんて答えれば正解だったのだろうか。誤魔化せばよかったのかな。でも、ばれるのは時間の問題だったんじゃないか。色んな思考が脳裏によぎって、結局なにも分からなくなってしまった。

 

「ねぇ、裕太。知らないよね」


 あたしは無意識に裕太に覆いかぶさっていて、彼の口を両手でふさいでいた。


「椎名ゆらなんか知らないよね」


 あたしの声が震えていたのは、もうきっと気づいているだろう。


「裕太が好きなのは笹原ゆらでしょ」


 そうだ。洗脳すればいいんだ。裕太が受けたカウンセリングと一緒だ。忘れてもう一度やり直せばいいんだ。それを思いついたとき、あたしは異常な安心感と虚無感と裕太への歪んだ愛情でおかしくなっていた。

 もともとあたしはおかしかったのだ。今になって壊れたわけじゃない。


「あんな奴のこと、忘れちゃった方がいいよ。そうだよ、裕太ならできるよ。忘れよう。だいじょうぶ、あたしがいるから。忘れられるよ」


 あたしが無理やり言い聞かせると、裕太は無言でこくりと頷いた。何に納得したのか、あたしのことをどう思っているのか、何も聞けなかった。怖かった。

 裕太との関係はそのまま続いた。何も変わらず、裕太は「好きだよ」と言って、「あたしも」と返す。何も変わらないのに、前とは全然違う感情が残る。胸のあたりがまたぎゅっと痛くなって、気分が悪くなった。

 裕太の意見も聞かず、自分の感情で押し切って何もなかったかのように元通り。本当にこれでよかったのだろうか。あたしは眠るたびに嫌な夢を見た。昔のあの暴力的だったころの裕太がそのまま大人になった夢。

 許さない、と酷く怒ってあたしの首をぎゅっと握りつぶす夢。目が覚めるたびに酷い汗で過呼吸になって、あたしの瞳からはぼろぼろと涙が出た。自業自得なくせに、あつかましい。


 裕太から別れるという言葉を待ってる。あたしからは言えないから。

 最低だなと、思う。でも後戻りができなかった。

 裕太のことでおかしくなっていたとき、あたしは寝不足で学校で倒れた。病院に行って検査をすると心臓が悪いかもしれないと再検査と手術を勧められて、あたしはそのときすべてを断ってしまった。何も決断する気力がなかったのだ。

 いっそ、死んじゃうか。そんなテンションで、あたしは地獄へゆっくり歩き始めた。


「ねぇ、裕太。あたしはさ、過去の自分は絶対に許さないから」

「……どういうこと?」


 あたしは許さない。過去の自分を許さない。

 裕太だけでも助けたいと思った自分を許さない。彼はそんなの望んでなかったのに。あたしの優しさは傲慢だったのに。

 

「優しい自分も殺しちゃおう。そしたら、きっともっと、楽になるよ」


 裕太の不思議そうな顔に、あたしはただ笑顔で応える。

 裕太のことなんかどうでもいい。あたしのことだけを考えよう。あたしが生きていられる時間、幸せならそれでいいじゃないか。

 言葉にしたはずなのに、胸のつっかえはなかなかとれなくて、涙が出てきそうになった。裕太はあたしが死んだあと、悲しんでくれるだろうか。それとも喜ぶのだろうか。裕太が他の誰かと恋をして、幸せになる未来をあたしは許せるのだろうか。



 いろんなことを考えて、結局あたしは好きになってしまった男の幸せしか考えられない都合のいい女になったことに気づかされた。

 病気のことは絶対にばれたくなかったし、裕太にそれとなく別れを告げさせる手段を考えた。次の恋人ができればいいのだと、あたしはとても愚かな結論に辿り着く。


「だからさ、裕太がほしいならセフレ作ってもいいよ」


 最初はぎこちなかったけれど、だんだんと演技は上手くなっていった。裕太から別れを切り出させるために、あたしはそっと彼の新しい恋を見守った。あたし以外の素敵な人に巡り合って、そしてあたしのことをまた「忘れればいい」

 また、大事な人を失って悲しむのなんか嫌でしょ。


 

 

 愛莉に出会ったのはちょうどそのころだった。



 

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