2 秘密の隠蔽
高校生のとき、両親が離婚した。あたしは母親の方に引き取られて苗字が「笹原」に変わった。笹原ゆら、という名前の違和感は時間とともに薄れていく。
離婚してからお母さんはあたしを育てるために仕事漬けの生活になった。家にはいつもあたし一人。寂しいなんて言葉を口にする勇気はなかった。
「可愛いね」と言ってくれる男を信用していたわけではない。利用していたのだと思う。「好きだよ」「愛してるよ」その台詞はきっと何十万回も他の誰かに言ってきたものなんだろう。全部口だけで、一時の欲に勝てずに溺れるだけ。一生、なんて言葉はこの世に存在しないのだ。お母さんとお父さんが離婚したように。
「ゆらさ、朱莉の彼氏と二人で出かけたってほんと?」
「教育実習のせんせとラブホ街で二人で歩いてたの見たって子いるんだけど?」
「ねぇ、金払ったら一回ヤらせてくれるってほんと?」
鬱陶しい。誰もあたしの寂しさを埋めてはくれないし、噂だけが独り歩きしていく。あたしは普通の恋がしてみたかっただけなのに、あたしだけを大切にしてくれる優しい彼氏が欲しかっただけなのに。
専門学校の進学が決まって暇になった夏、あたしはインディーズのバンドにはまっていた。卒業してから一人暮らしをする部屋はそのバンドがよくライブをする箱の近くにしようかな、なんてあたしはひとりでわくわくしながら動画サイトにアップロードされた彼らの新曲を聴く。耳障りなノイズをあたしの推しバンドがかき消してくれる。あたしの精神安定剤だった。
高校を卒業後上京して、SNSで仲良くなった友達と好きなバンドが出るライブハウスをまわっているとき、あたしは偶然か必然か「会いたくなかった」その人に再会した。十年近く経っていたから身長もぐんと伸びて大人っぽくなっていたけれど、やんちゃだったあの頃の面影が残っていて、すぐにあたしは気づいてしまった。
「大丈夫っすか?」
ライブ会場で無理やりお酒を強要されて気持ち悪くなって外に出た瞬間、あたしに気づいた彼が声をかけてきた。心配そうにあたしを見つめる表情に、あたしは戸惑って「だいじょうぶです」と適当に返事を返す。たぶん、あたしが誰だか気づいてないように見えた。
そのままどこかに去ったかと思うと、彼はコンビニでお水を買ってきて、あたしに手渡してきた。昔から想像のできない紳士な行為にあたしは動揺した。「ありがとう」絞り出すような声でお礼を言う。やっぱり、あたしだって気づいていない。
「すみません。お礼、今度させてください」
今度なんてあるわけない。社交辞令のつもりだった。
だけど、連絡先を交換してもあたしが名前を名乗っても、彼の態度は一向に変わらなかった。苗字が変わって大人になったあたしは、彼の記憶の中からきっと完全に消去されていたのだ。あたしは彼に初めて会った「笹原ゆら」という少女を演じざるを得なくなった。自業自得だと思う。
あたしは彼にどういう態度をとるのが正解かわからずに、彼の「会いたい」という言葉に従って何度か一緒に出掛けた。溢れ出る好意はとても分かりやすくて、今までかかわってきた男たちとは違う純粋な愛に心がどんどんとおかしくなった。
愛される幸せと、正体がばれて彼がどこかにいなくなってしまう恐怖で、頭がおかしくなりそうだった。「付き合ってください」という彼の告白を、あたしは何度もはぐらかして、それでも彼と一緒にいる時間が心地よくて、ただただ苦しかった。
あたしに選択肢はないのだ。あたしが彼の妹の命を奪う原因になったあのときの子だと思い出したらこの関係は終わってしまうのに、それでもあたしは一瞬の幸せを選んでしまう。最低で最悪で、いつか殺されると思った。それでもいいと思うくらいに、あたしは深い深い恋の沼に堕ちていたのだ。
「じゃあ、付き合う?」
あたしの返事にわんこのようにしっぽを振って喜ぶ裕太の姿が可愛くて愛おしくて、そしてあたしは永遠に口にすることのできない秘密を背負うことを覚悟した。あたしは彼の記憶が戻るまで、それでまでの恋人だ。思い出してしまったら最後。あたしは彼に殺されるだろう。騙したな、と。
あたしだけが知っている。
思い出したくないあの夏の記憶を、必死で隠蔽しようとしていた。
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