幕間

1 震えるてのひら

「裕太が身も心も奪われて、他の女に現を抜かすようだったらさ、きっとあたしね」


 きっと、あたしはその人に裕太を幸せにしてもらえるよう土下座でもしに行くんだろうな。

 ごくんとすべてを飲み込んで、そのままお酒を喉に流し込んだ。アルコールがまわってきて、あたしはヘラヘラと笑う。意識が朦朧としてきて、そのままあたしは深い眠りについた。

 裕太のことが好きな自分が嫌いだった。裕太のことばかり考えてしまう自分が嫌いだった。結局あたしは何もできずに死ぬのだろう。こうなることは最初から分かっていたのに、それなのにあたしは誘惑に負けて堕ちていく。恋ってそんなもんだ。







「ゆうたがまたミサちゃん泣かせた~」

「はぁ! こいつが勝手に泣いただけだろ。俺のせいにすんなよ」

「ゆうたがおもちゃひったくったのが悪いんでしょ。返してあげなよ」

「いやだよ。俺悪くないし」


 一番最初の記憶は小学生のとき。近所の住んでいた男の子はすごくやんちゃで、お前のものは俺のもの精神のガキ大将だった。体が他の子より少しだけ成長が早いのか力も強く、よくお母さんが学校に呼び出されていたのを覚えている。そいつの名前が瀬名裕太。

 当時、彼の2つ年下の妹の美咲ちゃんと仲が良くて、あたしはいつも彼女とおままごとで一緒に遊んでいた。裕太はよくそこに邪魔しに来てはミサちゃんを泣かせ、あたしと喧嘩になる。

 一緒に遊びたいなら言えばいいのに。一匹狼がかっこいいと思ってる年頃なのだろうか、それとも女の子と遊ぶのが恥ずかしいと思ってるのだろうか。正直裕太に関しては「ダサい」としかあたしは思っていなかった。

 あたしと裕太はただの同い年の幼馴染で、それ以上でもそれ以下でもなかった。だけどあの日、あたしは裕太の逆鱗に触れてしまった。彼はずっとあたしを恨んでいるのだろう。


「……あれ、ミサちゃんどこにいった?」


 こども会のイベントで海に行った日のことだった。ミサちゃんと砂浜で貝殻を拾っているときにサンダルのストラップが切れて、あたしはミサちゃんに「サンダル直してもらってくるね」と言ってその場を離れた。砂浜は日光に熱されて激熱で、片足の感覚がなくなっちゃうんじゃないかってぐらい痛くて、あたしは壊れたサンダルを手に持ちながら片足飛びでビーチパラソルを広げた保護者の集まる場所まで向かった。お母さんにここまで来るまでに履いていた靴を出してもらって、履き替えてすぐに元の場所に走っていった。時間はたぶん五分くらい。たったの五分の出来事だった。


「ミサちゃん?」


 さっきまでいたはずのミサちゃんの姿がどこにも見えず、あたしはきょろきょろと周りを見渡す。名前を何度も呼んでも、返事は返ってこなかった。近くでビーチバレーをしていた裕太に声をかけて一緒に探してもらう。焦りは時間とともに強くなっていって、砂浜を蹴る靴が重くて走りづらかった。尋常にないくらいに汗が背中に流れていたと思う。少し離れた岩の近くでミサちゃんのサンダルが見つかって、あたしは呼吸が止まったかと思った。


 ぶくぶくぶく。目の前の海に泡がみえた。小さな子供が必死にもがいているのに、どんどんと波に飲み込まれていく様子だけがあたしの目に焼き付いて離れなかった。


「ミサっ」


 裕太が海に飛び込んだのがすべての始まりだった。妹を助けたい、彼はただの優しいお兄ちゃんだったのに。あたしは、そのとき必死で彼をとめてしまった 。裕太が離せよと怒るのに、あたしは裕太まであの深い海に飲み込まれてしまうのが怖くてつかんだ手を離せずにいた。二人で海の浅瀬で攻防しているあいだに、泡がどんどんと小さくなっていって、音が聞こえなくなる。


「お父さんとかおとなのひと呼びに行こうよ。あたしたちじゃ無理だよ」

「今助けなきゃ、ミサが死ぬんだよ。離せよっ」

「いやだ」


 あたしたちの大きな怒鳴り合いで近くの大人が気づいてここに辿り着いた時、もうミサちゃんは海の中に沈んでいた。

 ミサちゃんは何度も人工呼吸が行われ、大人たちが読んでくれた救急車に運ばれていった。恨むような鋭い裕太の目があたしを刺していた。

 何を間違えてしまったのだろうか。サンダルのストラップが切れたとき、ミサちゃんも一緒に連れて戻ればよかったのだろうか。いないことに気づいたとき、すぐにおとなのひとを呼びに行けばよかったのだろうか。裕太が助けに行くのを止めなければ二人とも助かったのだろうか。

 そんなの後の祭りだ。結局なにが正解でなにが間違いかなんて誰にも分らない。

 ミサちゃんが死んだ。あたしと裕太の目の前で、助けることもできずに溺れて死んでしまった。


「お前のせいだ」


 腹の奥から煮えくり返ったような怒りにまみれた声が聞こえた。

 裕太の涙でぐしゃぐしゃになった顔を覚えている。


「絶対ゆるさないからな。殺してやる」


 お前のせいだ。お前のせいだ。大勢の大人と子供たちがいる中で、裕太は怒りを抑えることができずにあたしに殴りかかった。力いっぱいに兄弟げんかをしたことのない子供の抑えられない力が振り下ろされて、あたしは意識を失った。痛いとか怖いとかそういう感情はなく、ただ裕太まで死ななくてよかったという最低な安堵感だけが残った。


 目が覚めたとき、周りの大人たちは口々に裕太の凶暴性に悪態をついていた。裕太はそのままカウンセリングを受けさせてもらえる施設に入れられて、結局それ以降あたしたちが会うことはなかった。あたしはきっと彼からずっと恨まれているだろうし、次に会ったときは本気であたしのことを殺してしまうかもしれない。

 あたしは正直どうでもよかった。裕太への罪悪感で、どうせこれから楽しい日々なんて過ごせないんだから。




 裕太の家族は結局このまま近所に住めなくなって引っ越していったらしい。裕太の母親からは「ごめんね」と毎日のように謝られていたけれど、結局あたしがミサちゃんをちゃんと見ていてあげられなかったのが悪かったのだから謝らないでほしかった。

 いまだに昨日のことのように思い出す。泡がどんどんと小さくなっていって、音がしなくなるあの瞬間を。目の前でミサちゃんが溺れて消えていく姿を。

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