19 マルキーズ

 綺麗な花には棘がある。

 容姿だけ見れば可愛い笹原ゆらだって性格が悪いし、世の中そんなもんだ。他人の彼氏が自分のことを好きになることもどうでもよくて、誰か知らない人間が涙を流すのも気にならない。だって、自分のことじゃないんだから。

 ただ、棘があったのは笹原ゆらだけじゃなかったって話だ。これは、ただそれだけの話。

 


「お前さ、何の目的で俺に近づいてきたわけ?」


 優しい嘘にずっと騙されていれば、わたしは何も知らずにもっと気楽に息をしていられたのかもしれない。立ち止まらなければいけないと分かっていて、踏み込んじゃいけないと分かっていて、それでも足を前に進めた。全部自業自得だ。

 私が「彼」に出会ったことも、瀬名裕太という人間を騙し続けてきたことも。すべて、わたしがお墓までもっていくから許してほしかった。


 裕太くんに振られた日、わたしは彼から笹原ゆらについての話を聞いた。痴漢被害で性的なことに嫌悪感を抱くようになったらしく、恋人関係を終わらせたいと伝えられたときの話。彼女に本当に別れたいのか、と尋ねると困った顔で「そうではない」と答えたそうだ。彼女の持ち出した、体だけの関係の女を作るのはどうかという話は到底考えられないような話だったし、裕太くん自身も正直どうすればいいか戸惑っているようだった。

 わたしは、その時には彼のことが好きだったし、それに笹原ゆらに復讐する考えも思考からまだ完全に除外されていなかった。それが、すべての転機だったのかもしれない。

 話を聞いてる間、わたしは必死に彼にお酒を飲ませて酔い潰した。記憶がなくなるぐらいにぐでんぐでんになった彼をタクシーでホテルに連れ込んで、わたしは「既成事実」を作ろうとした。そうしたら彼だって決断してくれると思ったし、わたしの復讐と恋も実る。ウィンウィンじゃないか、とそんな安直な思考をぶん殴るような衝撃が彼との出会いだった。


「え、裕太くん?」


 シャワーを浴びて部屋に戻ると、額に手を当ててうなる裕太くんの姿があった。あんなに泥酔していたから起き上がるなんて予想外すぎて、わたしはどう言い訳しようか悩んでいると、こちらに気が付いたのか彼と目が合った。酔っているせいなのか表情がいつもと違うというか、瞳に光が一切ないことに恐怖を覚えた。


「お前、こいつの何? こいつの恋人はゆらだろ。浮気相手?」


 え。と思った瞬間、わたしの思考はすべて放棄された。

 脳みそがぶっ壊れるくらいの衝撃が、わたしの頭を直撃した。泥酔してたはずの裕太くんの容赦のない蹴りだった。頭がぐわんぐわんして、言葉が何も出ずに唾液だけが口からぼたぼたと零れ落ちる。地面に這いつくばるわたしを見てる裕太くんの目が真っ黒で、何を考えているのか分からなかった。わたしもどうして彼に暴力を振るわれているのか理解できなかった。


「なぁ、お前。死にたい?」


 ああ、別人だと思った。いずれにしても、わたしの知ってる裕太くんではなかった。裕太くんの姿をした殺人鬼が目の前にいるような感覚だった。

 這いつくばってげほげほと咳き込むわたしを覗き込むように、彼がしゃがみながらわたしを見る。何か言えよ、とそう言っているように見えたけれど、吐き気で声がかすれて音にならなかった。ただ、明らかにイラついている様子の彼が、私の知っている瀬名裕太という人間とは似てもに使わない存在だということだけ。気づきたくないことだったけれど、わたしの今まで知っていた瀬名裕太が全くの偽りの姿だったのかもしれない。


「だ、れ」


 声は掠れて音になっているのか分からなかった。でも、彼にはちゃんと聞こえていたのだろう。咽込むわたしを見て「お前の知らない瀬名裕太」と答えた。

 その日、わたしは地獄を知った。もう一人の瀬名裕太の存在だった。逃げることのできない恐怖と、隣り合わせの死で言葉は上手く出てこなかった。


 そのときにわたしは足をもがれても腕を千切られても逃げなければいけなかったのだと思う。わたしはその日、笹原ゆらが逃げようととしていた化け物に出会ってしまった。むしろあの子の想定通りだったのかもしれない。

 わたしはそのまま意識を失って、気づいた時には朝だった。隣に眠る瀬名裕太がわたしを見て焦っている様子だったのを覚えている。


 彼は、昨日のことを何一つ覚えていなかったのだ。

 そして、裕太くんは何も変わらない、いつもの優しい彼に戻ってわたしに微笑む。



 わたしはあの恐怖と自分の復讐を天秤にかけて、結局間違ったほうを選んでしまったんだ。「ねぇ、責任取ってくれるよね」既成事実を作り上げて、わたしは彼に近づこうとした。手に入らなくても笹原ゆらから奪えればいいと思ってしまったんだ。焦って戸惑いを隠せない裕太くんは格好の餌だった。わたしはこの日、唯一の逃げるという選択肢を自分から放棄したんだ。

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