18 ストロベリーソーダ

「この子、何にも知らないの?」


 包丁を持った少女は腰の抜けたわたしを見下ろして言った。

 痴情のもつれならどれほど良かっただろう。冷たい彼女の瞳に、わたしの背筋は凍り付く。


「ああもうじゃあいいよ。この子可哀想だし、こんなことやったって復讐になんないじゃん。いいや、もう」


 彼女はそう言うと、手のひらをゆっくり広げて包丁を地面に落とした。これで満足ですかと言わんばかりに千晴を睨みつけてため息をつく。

 何度思い返しても彼女は私の知り合いじゃないし、出会った記憶すらない。千晴の恋人かと一瞬よぎったけれど、名前の呼び方的にもそういう雰囲気を感じ取れなかった。


「三好さんの目的がなんであれさ、私はどうでもいいんだよ。ゆらが死んじゃった以上、もうどうしようもないんだから。だって、ゆらはこの世にいないんだしね」

「君は話を聞いたって考えは変わらないんでしょう。無理だよ、僕が何をしようとしても君はきっと「ゆらちゃんの犬」になる。僕はただ、それがゆらちゃんが望んでないってことを言いたかっただけ」

「ていうか何がどうであれ、三好さんは私に薬を盛って二回気絶させてますよね。殺される覚悟はあるってことだと受け取りましたけど」

「君が杏奈に危害を加える可能性があったからだよ。君が不幸になることは別にどうでもいい。ゆらちゃんの毒牙にかかって思い通りに動く人形にでもなればいいよ。でも、杏奈は関係ないだろ。君は杏奈も殺す気に見えた」


 二人の会話は正直意味が分からなくて、何の話をしているのか理解がおいつかなかった。ただ彼らの言葉に出てくる「ゆら」というワードが笹原ゆらのことで、彼女はもうこの世にはいない存在になってしまったことが事実として、ゆっくりと私の脳を侵食していく。


「ねぇ、千晴はどうして笹原ゆらとの関係があるの?」

「……」

「ゆらちゃんなんて呼ぶまで仲良かったの? ふたりは付き合ってたの?」

「……ちがうよ」

「笹原ゆらは裕太くんのこと、どう思ってたんだろう」


 歯車はすでに狂い始めていた。

 その原因の笹原ゆらはすでに死んでいて、彼女の残した爆弾の起爆スイッチはもうすでに押されているのだ。痣だらけの少女は大きくため息をついたあと「面倒くさいな」と吐き捨ててそのまま天井を見上げた。


「瀬名裕太、殺しちゃおうかな。あの浮気男さえ撲滅したら気が済むかも」


 最悪の結末が始まろうとしていた。止めるなら今しかないのに、私の体は動かなかった。どこをみているのか焦点の合わない彼女の黒い大きな瞳が怖くて、殺人鬼というのはこうやって生まれるんだな、なんて思った。そして同時に、そっくりだと思った。それが、パズルの最後のピースだったのかもしれない。


 あ。と、思った瞬間、わたしの精神状態は一気に不安定になって、言葉を発することに苦痛を感じた。幸せな結末、ハッピーエンドに向かっていることを悟ったからかもしれない。

 笹原ゆらが思い描く「トゥルーエンド」への道筋だった。


 包丁を鞄に仕舞って出て行こうとする彼女の腕を引き留めたのは、わたしの最後の足搔きだったのかもしれない。ここで殺されてもきっと自業自得だと思う。それでも、わたしは笹原ゆらの思い通りになりたくなかった。裏でなにかやってた千晴の操り人形になるのは嫌だった。


「行っちゃだめだよ。戻れなくなる」


 彼女は不思議そうな顔でこちらを見る。何の話か全く分かっていないようだった。


「あなたは、瀬名裕太と一度でもあったことがある?」

「……一回だけ、あるけど。それがなに?」

「なら気が付くよ。あれはダメだよ手に負えない。もう後戻りできなくなっちゃう、あなたならきっと気に入られちゃう」

「だからなに?」


 声の圧が一層強くなり、早く腕を離してといわんばかりの強い力で振り払われる。それでも、わたしは彼女にしがみついた。行っちゃいけない、と思った。

 似てる。すごく似てる。駄目だと思った。言わなきゃいけないと思った。



「ねぇ、あなたはどっちの裕太くんに会ってる?」


 選択肢を間違えると、きっと彼女はもう戻ってこない。笹原ゆらの二の舞になるのだろう。わたしには関係ないことだし、見捨てればいいことだというのは十分理解していた。ただ、わたしは笹原ゆらの思い通りになるのが嫌だっただけなのかもしれない。必死に彼女にしがみついて、お願いした。


「彼には会っちゃダメ。お願いだから、会わないで」


 彼女はわたしの手を力ずくで振り払って部屋を出ていった。吹き飛ばされたわたしには虚無感と罪悪感が残るだけ。何もできずにただ突っ立っているお人形の千晴を見て、なんだか腹が立ってきてわたしはベッドの近くにあった枕を彼の顔面に投げつけた。ようやく目が覚めたような顔をして、彼はゆっくりと崩れ落ちていく。


 ごめんなさい、と絞り出すようなか弱い声で彼が謝る。泣いているのか、鼻をすする音が聞こえた。わたしたちはひとりの少女すら守れないまま、笹原ゆらの思い描く世界へと向かって行っているのかもしれない。これを知ってるのはわたしだけなのだろうか。千晴はどこまで知っているのだろうか。

 わたしは結局生きているだけ。笹原ゆらに勝つことは一度もないまま勝手に吹っ掛けた勝負は終わってしまった。何度も反芻する「裕太の幸せがあたしの幸せなんだよ」という言葉がいかに残酷で、そして誰かを犠牲にしてまでもその仮初の幸せを望むのが理解できなかった。


 ひとりの少女を生贄に、世界はまたいつも通り、当たり前の日常を進みだすのだ。

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