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16 ヴェスタ
それは、まったくもって綺麗な感情ではないのだ。
■
わたしは選択肢を間違えたのだと思う。彼の困ったように笑う表情に気づいたのは、わたしの恋が終わった瞬間。それまでは、わたしのことを愛でるような優しい表情だったのに、彼の「ごめん」という言葉と同時にわたしの恋愛フィルターは解けてしまった。
そして、最悪の結末を辿る彼を可哀想だと思ってしまった。
そこに、振られた哀れな自分に対する屈辱が一ミリもなかったかというと嘘だけど、我儘なわたしに最後まで付き合ってくれた彼を見捨てることはできなかった。笹原ゆらはやっぱり悪女だったし、わたしの人生で一番の天敵だったと思う。
「何してんの」
それを見て、わたしは少なくとも動揺した。わたしの知ってる「その人」はこんなことをする人じゃない、と勝手な先入観で思っていたから言葉を吐き出すのに時間がかかってしまった。
わたしの足下に転がっている女の子に見覚えはない。どこにでもいそうなわたしと同じぐらいの若い女の子。眠っているのではなく、意識を失っている様子だというのは見てすぐにわかった。
彼から呼び出しを受けたのは一時間ほど前。「杏奈に相談したいことがあるんだ」といつもより神妙な口調で言われたから、心配でタクシーを使ってここまできた。伝えられたホテルに到着して、わたしはそのまま彼の言う通りの部屋番号を探し、扉を開けた。鍵はかかっていなかった。
「ねぇ、大丈夫? え、生きてるよね。ねえ、起きてよ。え、ていうか千晴はどこにいるの。え」
扉の近くで横たわる女の子の体を軽く揺する。ころりと転がって見えた額には酷い痣がついていた。
わたしの動揺はさらに加速していって、何を考えればいいのかわからなくなった。救急車を呼ぶべきか、フロントにいってAEDを持ってくるべきなのか。それとも警察、と頭によぎった瞬間、わたしはごくりと息を飲む。
顔をあげると見覚えのある彼の姿が見えた。
「ねぇ、杏奈」
いつもは優しいお兄ちゃんのはずの彼の声が、怖く感じた。
笑ってるはずなのに、なぜか圧を感じて声が出せない。
「僕は間違えちゃったのかもしれない」
その声は微かに震えていた。横たわる彼女が誰なのか、彼は教えてくれないだろう。どうしてこうなったかくらい説明してくれればいいのに、ただ彼はわたしを見つめて目を伏せるだけ。
静かな沈黙が流れると思った瞬間、それは起きた。
気を抜いた、というわけではない。本当に一瞬の出来事で、わたしの脳の処理が間に合わなかったのだ。
意識を失っていた彼女が急に起き上がって、うしろからわたしの口元をぎゅっと両手で覆い、そのまま後ろに倒した。びっくりして顔をあげたわたしに突き付けられたのは、紛れもない「包丁」で、額に痣のある女の子はふらふらとしながらわたしを見て「はじめまして」と言ってくる。わたしはなにが起こっているのか分からずに、恐怖で声が出せなくなった。
「写真の子だ。確か、三好さんの大事な人だっけ」
わたしをじっと見つめて彼女はふにゃっと笑みを浮かべる。
包丁は、ずっとわたしに向かって突き付けられていた。
「私はさ、救われたいとか逃げたいとかそんな生温い感情でここに来てないんですよね。お二人が何考えてんのか知らないですけど。私はちゃんと決意をして、ここに来てるんです」
包丁を持った手がゆっくりと上がり、千晴の方に尖った先が向かった。
千晴はずっと地面を見てるだけで、何も動こうとしなかった。わたしを守ろうと動くこともなく、目をずっと逸らすだけ。
「ゆらちゃんは君を傷つけたくないんだよ。僕は最後に君を託されただけ」
千晴の口から「ゆら」という名前が出たことに、私は驚きを隠せなかった。どういう状況なのか分からないのに、わたしはそれに対して言及したくて仕方がなくて、腰が抜けて座り込んでいた弱い自分を必死で立ち上がらせて、彼の前に立つ。
「ねぇ、千晴。裏で何やってたの?」
ホテルの一室で、わたしたち三人は「笹原ゆら」を中心にして、出会うはずのない未来を変えていた。私はその日、初めて笹原ゆらという天敵が死んでいた事実を知ったのだ。
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