8 チェリーブロッサム

 夜ご飯を食べてお風呂に入り、化粧を落としてベッドに寝転ぶ。幸せなな日常のはずなのに、何か気持ち悪くて、キーケースに片づけたゆらの「鍵」をじっと見つめた。


「なんでなんだろな、分かってるのに」


 ゆらと出会わなかった世界線を考えて、やっぱり無理だと思った。

 泣いてるゆらに手を差し伸べてしまったあの日から、私はもう引き返せないのだ。ゆらを泣かせて自殺まで追い詰めた人間を許すことはできない。


「大事なのは思いきりだよね。ゆら」


 スマートフォンでネットショッピングサイトにアクセスして、私はそのまま適当に一番人気の切れ味のいい包丁を購入した。支払いをクレジットにしたために明後日にはもう届くと出ていた。

 私はベッドから体を起こし、ゆらが残したメモに記されていた電話番号をもう一度入力してコールボタンを押す。

 呼び出し音が三回ほどなって、もしもしと男の人の声が聞こえた。


「……もしもし」


 幸せな日常なんて、私にはもう必要なかった。




 二年前の秋。私はひとりの同級生と再会をした。最悪の再会だった。

 彼女の当時の印象は正直悪い。けれど、正直私はどうでもよかった。彼女のよく聞く噂は、男子に媚びを売りまくってるだとか、友達の男を寝取っただとか、本当なのか嘘なのかは知らない。他人事だったし、自分に害があるわけじゃないから関係ないと思っていた。

 クラスメイトでもない彼女を覚えていたのは、それは見た目が可愛かったから。そこらへんにいるアイドルよりは断然可愛かったし、まぁ男がこぞって鼻の下を伸ばしまくるのは理解できる容姿の良さだった。

 地元を出て二年半が経過したころだった、彼女に再会したのは。


「……何してるんですか」


 電車の中だった。ラッシュの時間帯ではなかったけど、わりと車内はぎゅうぎゅうで、息が少し苦しかった。気づいたのは、偶然。

 最初は女性のうしろにいた男の人がそっと彼女の手に自分の手をからめている様子が見えた。カップルなのかな、ぐらいの感覚で見ていたけれどだんだんと行為がエスカレートしていって、真っ青な顔色の女性がこちらをちらりと見たとき、それは確証に変わった。周りはみんな見て見ぬふりだし、そもそも人がいっぱいで気づいている人も少ないみたいだった。躊躇いと、緊張と、他力本願な自分が邪魔をして唇を噛んだ。声をあげることができたのは勇気が出たから、というわけじゃない。いまにもなきそうな彼女の顔を見て、どうしようもなくなったのだ。

 痴漢男を駅員に受け渡した後のお礼の食事で、彼女が高校の同級生ということが判明した。笹原ゆら、という名前は周りの友達たちから耳にタコができるほど聞いていたから忘れはしない。


「よく見てみれば、確かに見覚えのある顔かも」

「ごめん、あたしは分かんないや」

「いやだって私はただのモブだよ。笹原さんみたいな有名人じゃないし」

「有名人って、そんなことないのに」


 たっぷりの生クリームがのったパンケーキを小さな口に運んだ彼女は笑っていて、さっきまでの真っ青な怯えた姿からは想像もできないほど安定していた。

 電車を降りてしばらくは過呼吸状態で、笹原ゆらはずっと泣いていた。震える手で私の服の端をつかみ、「ありがとうございます」と絞り出すような声でお礼を言う。別に大したことじゃないのに、何度も何度もお礼を言う彼女に私は酷く動揺して、断るつもりの食事も受け入れてしまった。


「桐島さんって、ああ、もしよかったら下の名前で呼んでもいい?」

「うん。いいけど」

「じゃあ、愛莉で。あたしのことも気軽にゆらって呼んで」


 私がパンケーキを半分くらい食べ終えたころ、ゆらは近くの店員にパフェを注文していた。私へのお礼とか言って自分の食べたいものをガツガツ食べるあたり、彼女は本能には忠実だし、自分を曲げることは絶対にないのだろう。

 たったの数時間で平常心を取り戻せるなんて、強い女だと思った。だけど、私は彼女のただの高校の同級生にすぎないし、言えば赤の他人だ。

 私は彼女が泣いて電話をしてくるまで何も知らなかったのだ。爆弾の一つ目の投下は、思えばこの時だったのかもしれない。


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