2 レモネード
その日の22時過ぎ、家のチャイムが鳴った。私の家に訪れる人間なんて集金のために来る大家か宗教勧誘ぐらいで、22時を過ぎてやってくる非常識な人間に心当たりはなかったけれど、私はそっとドアスコープから外の様子を確認した。
私の部屋の前に立ってるのは見たことの無い若い男で、私はそのまま居留守を使おうと戻ろうとしたとき、二度目のチャイムが鳴った。まるで「いるのは部屋の灯りで分かってるんだぞ」と言われてるみたいで、私は一分ほど悩んで、大きく深呼吸して、そしてチェーンをしてからドアを少しだけ開けた。
「どちら様ですか」
最初にチャイムを鳴らしてから五分近くなっているにも関わらず、その男は私の部屋の前に立ったまま。私が出てきた瞬間目を皿のようにして「あ」と少し大きな声を出て、時間帯に気を使ったのか「すみません」と小声で謝った。
「桐島愛莉、さんですよね」
「そう、ですけど……誰ですか」
髪色の派手な男。よく見ると耳にピアスがめちゃくちゃ開いていて、ホストでもやってるかのようなチャラい男だった。
「俺、瀬名裕太っていいます。ゆらから話聞いてませんか?」
「……瀬名さん?」
名前はもちろん聞いたことがあった。ゆらの恋人だった男の名前だ。
会うのはもちろん初めてだった。何の目的で私を訪ねてきたのか分からずに、私はチェーンをしたまま怪訝な顔で「こんな時間に非常識じゃないですか」と言った。彼は申し訳なさそうに「どうしても話したいことがあって」と、返答にならない言い訳をして頭を下げた。
私はまたしばらく悩んだ後、チェーンを外して彼を部屋にあげた。話というのは十中八九、笹原由良のことで間違いないだろう。私は部屋に出したばかりの扇風機の電源をつけ、客用の座布団を押し入れから取り出した。
冷蔵庫に入ってあった麦茶をコップに注いで机に二つ置いて、私も座布団に腰掛ける。
「で、なんですか」
「ゆらから話、聞いてるんですよね。ゆらが死んだ日、それまで一緒にいたのはあなただと聞きました」
「それより、なんで私の家知ってるんですか。どうやって調べたんですか」
「興信所を雇いました。ゆらの自殺のこと、あなたなら知ってるんじゃないかって思って」
「……知らないですよ。ゆらが死んだのを知ったのは今日のことです」
「でも」
興信所を使ってまで私に会いに来た理由が「ゆらの自殺の理由が知りたい」なんて浅はかだ。会ったことはなかったけれど、彼の話はよく聞いていたし、想像通りの人間だった。焦った面持ちは変わらず、迫るようにぐいぐいと話を切り込んでくる。
「ゆらはあなたと会ってるときに死にたいと話すことはありましたか?」
「……ないですよ」
「ゆらから最近なにか良くないことがあったみたいな話、聞かなかったですか」
「……知らないです」
途中から鬱陶しく感じて、答える口調が悪くなってしまった。彼の焦りの正体を知っているからこそ、私はこんなにも苛立ってしまうのかもしれない。
「本当にゆらと最後に会ったのは私なんですか?」
「……どういうことですか?」
「最後に会ったのは瀬名さんなんじゃないですか。私とゆらが最後に会った日、彼女はそのあと恋人の家に行くと言ってました。瀬名さん、ゆらと会ってるでしょう?」
私の言葉に瀬名さんはびっくりしたのか、沈黙が続いた。尋常にないくらいの汗をかいて、言葉にならない声を漏らしていた。
「……許さない、ってゆらは言いました」
瀬名さんは長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いて静かにそう言った。
「過去の自分を許さないってゆらは言いました。……優しい自分を殺したいって言いました。俺、そのとき変だって思ったのに、何も言えずに別れたんです。ゆらは俺のせいで死んだんじゃないかって」
「そうだと思いますよ」
懺悔をしたかったのだろうか。あなたのせいじゃないよって言われたかったんだろうか。可哀想な瀬名さんを見ると鼻で笑いたくなってしまった。私は麦茶を一気飲みして、はあと大きくため息をついた。
「瀬名さんが浮気しなかったら、ゆらは死ななかったかもですね」
消し去ることのできない過去を、みんな心に秘めている。
やってしまったことは変えられないし、言ってしまったことはもう訂正できない。
ゆらがすべてを許せる優しい女だったなら、彼女は今頃笑顔で包丁を握りしめていただろう。
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