一話 唯一神の地獄は明けぬ

『――い、十六夜様……』


 妖街道、中心街。月楼げつろう内、十六夜の執務室。

 静寂を揺らしたのは、どこか同情するような影津の声。山積みの巻物や書物の中で、十六夜は死んだ目をしてゆるゆると顔を上げた。


「影津……はは、いいよ気にしなくて……一体どんな問題が待ち受けてたの……」


 十六夜はゆるゆると立ち上がり、連絡鏡れんらくきょうへと近付いていく。彼は影津の声の出し方から、調査に行かせていた二人が何か問題にぶち当たったことを察していた。


『それが……ですね、十六夜様……』


 連絡鏡れんらくきょうの向こうの影津は、その眼鏡の奥の瞳と声を困惑に揺らしながら現状を報告する。


『隠り世が……、参番街道に別の隠り世が繋がっております……!』


「――あぁ……」


 十六夜は天を仰いだ。

 神よ、嗚呼神よ、掛けまくもかしこ八百万やおろずの神々よ、どうしてこんなに仕事を増やすのだ。

 十六夜はもうそのまま何も言わず、その場に崩れ落ちた。


****


「やぁ十六夜! しばらくぶりだねぇ!」


「わ! おにぃ顔色悪いよ!? だいじょーぶ!?」


『はは……平気平気……』


 現し世、陰陽亭二階にて。連絡鏡れんらくきょうの向こう側に姿を現したのは、少しやつれた様に見える十六夜であった。


「にしても君から連絡だなんて珍しいね、何かあったのかい?」


『えぇ……そうですね……いや、先にそちらの状況を聞いても? かなり深刻な事態なので、場合によっては……その……、お爺様、だけでも戻ってきて頂きたいので……』


 十六夜は青い顔のまま、ボソボソと歯切れの悪い言葉を吐き出す。長い長いため息もおまけだ。やはり晴明に頼るのが相当しゃくなのだろう。


「はは、了解だ! ……とは言っても、実はこちらから連絡しようと思っていた所でね。こちらはもう何も問題は無いよ! ちょうどこの間、全てが解決した所さ!」


『えぇっ……!? 本当ですか!?』


 十六夜の驚きを受けた晴明は、ひょいと連絡鏡れんらくきょうの前から身体を退ける。そうして画面に映し出されたのは、晴明と緋月の少し向こうで、ハクと美藍めいらんにからかわれているヤタの姿であった。


『――あれ、その人……ヤタ!? え、あれ……どうして僕、彼女のこと忘れて……! っ、どういうことですか? 説明してください、お爺様……!』


 その姿を目にした途端、十六夜は瞠目し、動揺し、困惑したように晴明に説明を求めた。彼の反応は大方予想通りであったのだろう、晴明はニコリと笑うと「ヤタ」と彼女を呼び付けた。


「だから誰がアホ――はい? 何です晴明……おや、十六夜では無いですか! お久しぶりです!」


 どうやらまた阿呆とからかわれていたらしいヤタは、まるで百面相の様に表情を変えながらこちらへとやってくる。そうして最後に十六夜の姿を目にして、ニパッと嬉しそうな笑顔になった。


「ふふ……まずはコックリさん騒動の顛末てんまつから話そう。結果から言えば、コックリさんの呪いを引き起こしていたのはヤタだったんだ……まぁ、正確に言えば彼女の負の感情が、だけれどね」


 晴明がそう言った途端、ヤタはうっと呻き声を上げた。そうしてバツの悪そうな顔になると、「申し訳無いです……」と小さく呟いていた。


『……成程、それは分かりました。ですが、ヤタは完全に消えていた訳では無いのでしょう? どうして彼女は僕の記憶から消えていたんです?』


「うーん、それなんだけれどね、僕たちもよく分からないんだよ。ただ夕凪ゆうなぎが言うには、ほんの僅かに、薄い膜のような結界が張られていた様な気もするらしいんだ」


 いぶかしげな十六夜の言葉に、晴明は呑気に返事をする。その態度に十六夜はいつものように半眼になった。


「――! そーなんですよ! 急に妙な隠り世に閉じ込められたと思ったら、見る見るうちに力が抜けて……その瞬間、どうしてか緋月のせいだって思うようになって、結果あんなことに……くっ、自分で言ってて悔しくなってきやがりましたよッ! んもうッ!」


 晴明の言葉を引き継ぐ様に憤慨するのはヤタだ。彼女が悔しそうに地団駄を踏む姿はどこか幼く見え、後ろ側から二柱のくすくすと笑う声が聞こえてきた。


『はは……とりあえず事情は理解しました。もうそちらは平気、ということでいいんですよね?』


 そんなヤタの姿に苦笑しながら、十六夜は確認する。相変わらず顔色は悪いに超したことは無かったが、先程よりは多少良くなったかの様に見える。彼も現し世の騒動が落ち着いたと聞いて安心したのだろう。


「あぁ、そういうことになるね。さぁ、次はきみの方で発生した問題について聞こうか!」


『はぁ……、その、大変言い難いのですが……、どうやら参番街道に妖街道とは別の隠り世が繋がってしまったみたいなんです。流石に連日、僕と共に働き詰めの影津を送る訳にもいかず……ですので、早急に戻ってきて調査をして頂きたいんですが……』


 十六夜は深くため息をつきながら答えた。その瞳は生気を失っており、僅かな葛藤が伺える。

 危険な場所に妹たちは送りたくない、しかし、得体の知れない場所に晴明ごさいじ一人を送る訳にもいかない。

 彼がそんな葛藤を繰り広げているのは一目瞭然。御景でなくても分かるほどに、彼は微妙な顔をして考え込んでいた。


「えっと……あたしたちなら大丈夫だよ! だってヤタも居るし! あのね、ヤタってばすっごく強いんだよーっ! ……って、おにぃも知ってるんだっけ?」


 それに対して助け舟を出したのは緋月だった。ヤタはとても腕が立つと紹介しながら、何故か緋月がえっへんと胸を張っていた。


「えぇ、緋月と紅葉のことであればヤタさんにお任せ下さいな! ヤタさんの目の届く所で、絶対に怪我などさせませんので!」


 ヤタも緋月と同じ様に胸を張り、任せてくれとその胸をドンと叩いた。彼女の橙の瞳は自信に満ち溢れ煌めいているが、その瞳の中にはしかと約束は果たすという強い想いも現れていた。


『――!』


 十六夜はその強い意志の宿った瞳に、腹は立つが実力と有言実行することだけは確実に信じられる祖父せいめいの姿を重ねてしまい、一人目を見張った。

 それに、ヤタという神の誠実さと任侠者にんきょうもの度合いは彼も知っている。だからこそ、彼女は信頼に値すると本能的に悟っているのであった。


『……うん、分かった。それじゃあお願いだ、今すぐ妖街道へ戻って、調査をお願い出来るかな?』


「うんっ!」


 やがて十六夜は何かを諦めた様に首を横に振ると、いつも通り柔和な微笑を浮かべて頼んでくる。もちろんそれを断る理由は無い為、緋月は満面の笑みで応えた。


『それから紅葉ッ! そこに居るよね!? くれぐれもお爺様から目を離さないでねっ!? それから……』


『――! 十六夜様! 急に動かれますとその辺りの書物が……!』


『え? あ!? うわぁぁぁあああ!』


 それからいつもの様に紅葉を呼び付け、晴明の監視役を任命する。彼は他にも何か言いたげであったが、影津の焦った声、それからドサドサと言う音と十六夜の情けない悲鳴を最後に、通信は途切れてしまった。


「……あー、大丈夫なのか? よい兄さんは……」


 最後に声はかけられたものの、反応することは出来なかった紅葉は困った様に頬をかく。聞こえてきた崩壊音はかなり大きな物であった。


「とにかく、何か大変そうなのは分かったから……早く帰ろうじー様! ……じー様?」


 緋月は緊張した様な面持ちで拳を握り、祖父に声をかける。しかし彼からの応答は無かった。緋月が不思議に思って晴明を見上げれば、彼は何か新しい玩具を見つけた様な表情でほくそ笑んでいた。


「……ん? あぁ、すまないね、何でも無いよ! それでは妖街道に帰る……前に、一度宵霞や道真殿に挨拶をしていこうか」


 一呼吸置いて晴明はいつも通りニパッと笑う。だがその面にはしかと「面白いものを見つけた!」と書かれており、早速紅葉はやれやれと言ったように小さくため息を着くのであった。

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