第三章 鴉天狗の里編

プロローグ 誰そ彼

「――――!」


 誰かが、何かを叫んでいる。

 それは少女、憧れの背。

 その誰かは、何かへ向かって、何かを叫び続けている。


 ただ、しかと知っている。これは夢、何度も何度も、繰り返し見ている夢――故に、視覚も聴覚も酷く曖昧だ。

 朧気ながら、赤い装束が目に入る。それは、憧れの色。いつかそうなりたいと思いながら、ずっと眺めて、追いかけていたはずの、少しの少女の背。


 少女はずっと何かを叫んでいる。何を言っているのかはハッキリしないが、涙声であることは確かだ。


「――許さ、ない……ッ!」


 不意に、ハッキリ聞こえる言葉があった。果たしてそれは誰に向けられた言葉なのだろうか、分からない。

 ただそれは、しっかりと色濃い怒りを孕んで耳に飛び込んで来た。


 許さない。それは、拒絶の言葉だ。

 嗚呼、彼女は――憧れの少女は、一体何を拒絶しているのだろうか。もうそれすらも分からない。


 しかし、自分の次の行動は決まっている。何度も見ている夢だ、次に何が起こるかは知っているのである。


 ――ビシリ。


 少女の足元に、突如亀裂が走る。もう間もなく彼女の足元は崩落するだろう。

 崩れる、危ない、と口に出す前に、まるで操られたかの様に身体が動いた。


「――緋月様っ!」


 今よりもずっと幼くあどけない自分の声が、鋭い叫び声を上げた。

 緋月――それがきっと、目の前の少女の名前。

 身体を鞭打って駆け、少女の背を思い切り押す。それと同時に、くらりとした浮遊感が己に襲いかかった。

 結われたの髪をひるがえしながら、少女が振り返った。やはりその顔は朧気でよく見えない。しかし気配で、彼女が驚愕と絶望に包まれたのが分かった。


「桐ちゃんっ!」


 悲嘆に染まった少女の声が、誰かの名を呼ぶ――いな、恐らくこれは己の名なのであろう。何も覚えていないが、何処か馴染みがある。もちろん、何度もこの夢の中でそう呼ばれたからかもしれないが。


 少女は手を伸ばす――だが、届かない。目の前で空を切った手は、行き場を無くして情けなくその場を彷徨う。

 そのまま自分は為す術なく落ちて行く。不思議と怖くない。夢だから、だろうか。


 落ちて、落ちて、落ちて、落ちて――――。




「――っ!」


 少女は一人飛び起きた。バクバクと鳴る心臓をなだめながら、夢の中より幾分も伸びた手足を抱き寄せ、小さく震え始める。黒髪がはらりと落ちた。

 夢の中で幾ら余裕があったとしても、現実はこうだ。恐ろしくて恐ろしくて、少女は今にも泣き出してしまいそうな程震えた声を絞り出した。


「……貴女は、一体何方どなたなのですか……? 緋月様……っ!」



****


「……ふぅ、やはり参番街道の調査はかなり歩きますね」


 妖街道、参番街道。軽く汗を拭いながら呟いたのは、送り狼の青年――影津かげつだ。彼は簿を小脇に抱え、ずんずんと歩いていく。


「……御景みかげ、あまり走ると危ないですよ」


 そんな彼の目の前には、銀髪の少女――御景が居た。パタパタと楽しそうに駆けていた彼女は、影津の言葉に振り返ると、にっと嬉しそうに笑って駆け戻ってくる。

 中々どうして、彼女の顔の大半は両目を隠す眼帯で覆われているはずなのに、誰よりも表情が分かりやすいのである。


 何故、十六夜の右腕の二人が参番街道へと来ているのか――それは簡単な話である。この二人は、緋月と紅葉が現し世に出ている間の代理として、陰陽亭に寄せられた依頼をこなしているのであった。


「それにしても、やけに妖怪たちの姿が見えませんね……やはり知らぬ間に悪鬼あっきでも住み着いたのでしょうか」


 影津は隣に戻って来た御景を見つつ、独りごちた。その言葉に御景はハッとすると、懐から絵巻と矢立やたてを取り出し、サラサラと何かを始める。

 彼女の眼帯は特殊だ。視力は封じず、彼女のさとりとしての能力だけを封じる――十六夜が彼女の為だけに作り出した物なのである。その為、彼女は問題無く自身が今描いている物の状態を理解出来るのだ。


「――!」


 かなりの速筆らしい御景は、少し強ばった様な表情で完成した絵を影津へと見せる。

 実は、彼女は口が聞けないのだ。その上文字を書くことも出来ないが為、彼女は絵によって自身の考えや思いを伝えているのであった。


「……? ええと、それは……」


 今回描かれていたのは、見るからに悪しき存在。そして、それに食われている小鳥や鼠の形をした妖怪たち。加えて緊張した様な、怯えている様な御景の表情。


「…………、もしかして、悪鬼あっきが居て、妖怪たちを食べている……とでも言いたいのですか? 下手を打てば私たちも危ないと?」


 影津は彼女の顔と、彼女が描いた絵とを交互に見つめ、一つの結論を導き出した。その言葉に御景は、ぶんぶんと首を縦に振って同意を表している。

 そのあまりの深刻な表情に、影津は思わず吹き出してしまった。この辺りに邪気は感じ無い。その為、そうなっている可能性は極めて低いだろう。


「くっ……ふふ、……嗚呼痛い、痛いです。ごめんなさい、悪かったですから叩かないで下さい」


 突如笑い始めた影津を見て、御景はぷくーっと頬を膨らませ、ぽかぽかと彼の横腹を叩き始めた。影津はそれを、妹が居たのであればこんな感じなのだろう、と思いながらなだめた。


「あーあー、ほら、君が叩くから依頼帳簿を落としてしまったじゃないですか」


 御景の攻撃を防ごうと身体をよじった瞬間、影津の腕からするりと依頼帳簿が通り抜け、バサと地面に落ちてしまう。御景は知ったことか、とでも言う様にぷいとそっぽを向いてしまった。


「全く…………にしても、空を飛ぶ者……、ですか」


 影津は苦笑しながらそれを拾い、付いてしまった砂を払って落とす。そうして破損が無いかとパラパラと確認する内に、目に入った単語を読み上げた。そこには十六夜の筆跡で、「参番街道、見知らぬ地へ迷い込んだ上、空を飛ぶ者に攻撃され怪我人発生」と書かれていた。


(嗚呼、なんて美しい文字なのだろう……それに何とも簡潔で分かりやすい……流石は十六夜様だ……)


 その文を見つめながら、影津は心の中で大絶賛をする。その瞬間、御景が彼の方を向いて笑う様な仕草を見せた為、影津はしまったと顔を背けた。


 彼女はさとり――心を読む妖怪だ。とりわけ彼女の能力は強すぎるが為、その眼帯によって大部分は封じられている様だが、時折影津が十六夜を絶賛した途端に笑う様な仕草を見せることがあるのだ。

 その為彼は、本当は自分の声は筒抜けなのでは無いか、と疑っているのだが、何度問うても御景はちゃんと答えない。ただただ笑う様な仕草を見せて、はぐらかすだけなのであった。


『――おや、十六夜様のとこの眷属たちだね』


『本当だね、あの穴を調べに来たのかね』


 その瞬間、御景の頭に世間話のような声たちが響いてきた。ハッと彼女が顔を上げれば、そこには言葉を持たない二羽の豆鳥まめどりが止まっていた。

 彼ら彼女らは多種多様な存在で、言葉を持つものと持たないものがいる。影津には鳥の鳴き声にしか聞こえていない様で、急に立ち止まった御景を不思議そうに見つめていた。今回は後者のようだ。


『おや、気付いたね。よく見たらさとりの娘だね』


『本当だね、やっぱりあの穴を見に来たのかね』


 豆鳥たちの言葉に、御景は首を捻る。そして即座に絵巻と矢立やたてを取り出して大きく疑問符を書くと、豆鳥たちに見えるように高らかに掲げる。


『そうだったね、さとりの娘は口が聞けないんだったね』


『教えてあげようね。今、御神木の近くに大きな穴が空いているんだね。そこに入っていった奴らは皆怪我をして帰って来たんだね』


 その意味に気付いた豆鳥たちは、ピィピィと鳴きながら丁寧に答えてくれる。それを理解した御景は嬉しそうに何度も頷いて、笑顔の絵を描いた。彼女の感謝の気持ちだ。


『礼は要らないね』


『早くあの穴をどうにかしておくれね、恐ろしいからね』


 しっかりと伝わったらしい。豆鳥たちは小さな身体を震わせると、その穴があると言うらしい御神木の方向と逆の方向へと飛び去って行った。


「何か、分かったのですね?」


 その一連の流れを見守っていた影津は、何かを描き始めた御景へと声をかける。彼女は顔も上げずに頷いた。


「――!」


 そうして完成した絵には立派な御神木。その近くにはいびつな穴が空き、そこから先程も描かれていた様な悪しきものが顔を覗かせていた。穴の外には怪我をし逃げかける妖怪たちが描かれており、思わず影津は顔をしかめるのであった。


「ふむ……? 成程、大方君の予想は近かった様ですね。早急に確認しに行きましょう」


 そう言うと影津は大きな狼へと姿を変えた。御景も慣れた様にぴょいとそれに飛び乗る。彼女がしがみついているのを確認した影津は、颯爽さっそうと走り出すのであった。

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