第64話支配人室で 父と娘

支配人室に入ると、支配人の父が待っていた。

怒られるかと思っていたけれど、意外に柔らかな顔。

美和が手に持つ柿崎パン店の袋を見ると、さらに相好を崩した。

「美味しそうだな」


美和は思いつめた顔。

「あの・・・」

と口を開きかけた。


しかし、父は美和を手で制した。

「辞めるのか?」

父らしいストレートな言い方。


美和は、頭を下げた。

「ごめんなさい、シンガポールには行きたくない」


美和の肩を父が軽く叩く。

「そんなことだろうと」

そして、含みのある笑顔。

「俺も、クイーンホテルを辞める」


美和は、これには驚いた。

「・・・え?これからどうするの?」


父は、また笑う。

「山下公園の前の、例のホテルに前から誘われていてね」

「何でもそこの支配人の体調が思わしくないとか」


美和は肩の力がストンと抜けた。


父は、美和の顔をじっと見る。

「一度きりの人生だぞ」

「大きな力に振り回されるだけでは面白くない」

「多少の苦労があっても、やってみたいことをやれ」

「自分の力で切り開くのも、悪くないよ」


「うん」と頷きながら美和は父に聞く。

「どうして辞めるってわかったの?」


父は、また笑う。

「それはわかる、俺の娘だから」

そしてつけ加えた。

「田中珈琲豆店の保さんがそれとなく」

「彼とはクイーンホテルで一緒に働いた仲、彼は珈琲淹れの名手」


美和はコッペパンを、父に渡す。


「ああ・・・美味しい」

「親父さんのコッペパンとは違うが、華やかな甘みがある」

「これも毎日食べられるようになるな」

父は、うれしそうに、あっと言う間に一本食べ終えてしまった。

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