第56話美和の喪失感と屈辱感

メトロに乗り込んだ美和は、とにかく悔しくて仕方がない。

「何故?どうして?」

「孝太のパン屋ごときに、フランス大使館まで?」

「場末の・・・横浜の・・・庶民の店に?」

「それも私なしで?」


孝太からの「訣別宣言」が、心に重い。

「しがないド田舎のパン屋のせがれのくせに」

「この私と話をしないだと?」

「あの馬鹿、身分をわきまえるってわからないの?」


美和にとっての孝太は、そもそも「優秀なケーキ職人」であり「利用価値のある下僕」だった。

ただ、孝太は「下僕」ではあるけれど、美和の意思に反して「勝手な行動」を取ることが多かった。

だから、「優秀な下僕」に逃げられたくない美和として、無理やりに孝太の世話を焼いた。

パリ時代から、孝太の部屋の合鍵を強引に作り、押し掛けるのは当然。

病院に入院した真奈の面倒を見たのも、孝太を逃がしたくないため。

それでも、美和は気になっていたことがある。

「面白半分に、孝太に抱きついたことがあるけれど、孝太は嫌そうな顔で私から逃げた」

「孝太が私に笑いかけたことは、一度もない」


美和は、唇をキュッと結ぶ。

「ますます孝太が許せなくなって来た」

「パン屋の大盛況?ふざけないでよ!」


しかし、フランス大使館の話を思い出すと、また戸惑う。

「もし、押し掛けて孝太に文句を言って、それを大使館の人に見られたら・・・」

「それこそ、クイーンホテルにはいられなくなる」

「・・・じゃあ・・・私は何をしたらいいの?」

「ただ、孝太の・・・あの馬鹿孝太の成功を見て来ました・・・それで納得できるの?」


顔をあげて外を見ると、すでに横浜に近い駅名。

美和は、全く考えがまとまらないまま、喪失感と屈辱感に包まれていた。

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