第9話割烹板前長源の弁当と孝太 支配人室に若手パテシィエ深田美紀が飛び込む

柿崎孝太は、弁当の具材を一つ一つ丁寧に味わって食べた。

「ご飯の炊き方で米の甘味もこれほど違うのか」

「これは野菜の焼売?これは美味しい」

「鰆の西京焼き、焼き海老もいい塩梅」

「里芋の白煮、南京豆の田舎煮、人参含め煮か・・・これは好きな味」

「玉子焼きも甘味が上品」

ついに一気に食べてしまい、その勢いで「割烹の板前長源さん」にコール。

「源さん、ありがとう、さすが・・・これ新作?」


「源」はやわらかな声。

「いや、普通に詰めただけ、孝太が好きそうな具をね」


柿崎孝太は、素直に礼を述べる。

「何か申し訳ないな、こんなオタオタしている俺に」


源は、声を少し大きくする。

「悪いとは思ったけれど、支配人から少し事情を聴いたよ、どういう結論になるかは最終的にはお前さんは決めることだが」


柿崎孝太は口ごもる。

「うん・・・だいたいは決まっているけれど」


源は諭すような話し方に変わる。

「とにかく焦るな、飯ぐらいは、ちゃんと食え」

「身体をフラフラさせて見舞なんて、情けねえからさ」

「それじゃ、明日の仕込みもあるから」


柿崎孝太は、割烹の源との話を終え、放心状態。

「あの和食界でもトップクラスの源さんが、わざわざ俺のために弁当か」


杉浦美和も弁当を食べ終え、柿崎孝太に声をかける。

「それとね、他のフレンチ、イタリアン、中華のシェフたちも・・・」


柿崎孝太は杉浦美和の次の言葉を手で制した。

「源さんは、いまさら仕方がない」

「しかし、俺がホテルに残るとか残らない、はあくまでも俺の事情であって俺が決めること」

またしても頑固な柿崎孝太を前に、杉浦美和もまた、押し黙ってしまう。


さて、その時間、ホテルの支配人室では深刻な雰囲気に包まれていた。

杉浦支配人

「つい、源さんに言っちゃったよ」

松田パテシィエ長

「まあ、源さんなら孝太の親父さんとも孝太の一家とも長い付き合い、孝太も文句は言わんでしょう」

杉浦支配人は頭を抱えた。

「それにしても、官邸からまた連絡が来てね、何とかならないのかって」

「美和から妹さんの事情を聞いて、それも言ったんだけど」

「例のセレブ大使夫人たちが、どうしても孝太のケーキを食べたいとか」

「他のホテルには行きたくないとか」


松田パテシィエ長も苦し気な顔。

「これは部下を育てられない私の責任でもありまして」

「孝太以外に、このホテルの洋菓子の未来を託せる職人がいなくて」

「吉田、鈴木は・・・同じことを同じようにしか出来ない、それがベストとしか考えていない」


杉浦支配人は、松田パテシィエ長をなだめる。

「もし使い辛かったら、配置転換を考えてもいいかな」

「彼らも、ずっと同じホテルでマンネリ化しているかもしれない」

「チェーンホテルなので、本部にかけあえば何とか」


松田パテシィエ長は煮え切らない顔。

「彼らが簡単に納得するかどうか」

「それに孝太君も逆に戻り辛くなるのでは」

「・・・それも、そもそも、難しいかもしれませんが」


その深刻な雰囲気の停滞は、突然、破られた。


支配人室のドアがノックされ、そのまま、若手パテシィエの深田美紀が血相を変えて飛び込んで来た。


杉浦支配人は驚いた。

「深田さん、何があったんですか?」


松田パテシィエ長も立ちあがる。

「おい!どうした?」

深田美紀は、右頬を酷く腫らしている。

そして、そのまま松田パテシィエ長の前に泣き崩れてしまった。

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