24.「運命が憎い」


 飛田とびたは財布を拾い、落とし主の男性に声を掛けた。

 

「あの……お財布を落とされましたよ」


 しかしその男性は、無言で目も合わせずに財布を片手でスッと受け取ると、そのままトイレへ行ってしまった。



 2分ほど経ち、トイレから戻ってきた男性はすぐ近くの長椅子に腰を下ろした。俯いて、フウとため息をつく。

 やや乱れた髪の大半は白髪である。長袖のセーターもジーンズも、所々穴が空いていた。


 さらに1分ほど経った時。

 男性が鞄から出したのは、カッターナイフ。彼は震える手で、刃を左手首にあてがった。他人に見られぬようにするためか、すぐにカッターナイフを袖に隠す。


 只ならぬ男性の様子に気付いた飛田は、そっと近付いて話しかけた。


「あの……」


 声をかけられた男性は素早くカッターナイフを鞄にしまい、怯えた目で飛田を見た。左手首には、幾つもの傷跡がある。


「……どうされたのですか。私で良ければ、話を聞きますよ」


 男性の隣に座り、彼の目を見ながら問いかけた。彼はすぐに目線を逸らして下を向くと、弱々しい声を絞り出す。


「……生きていても、良いことなどありません」


 こういう人には“頑張れ”みたいな言葉で励ましたり、言うことを否定してはいけない——。

 直感的にそう思った飛田は、ただ頷いて話に耳を傾けることにした。

 すると男性は、自ら言葉を紡いでいく。


「私の名前は【佐藤さとうゆたか】。長年鬱病うつびょう、不整脈、糖尿病を患ってます。病院に通っても治る気配が無い。運命が憎いです。世界が憎いです。自分自身が憎いです……」

 

 佐藤は俯きながら、思いを吐き出し続けた。

 聞いていた飛田の気持ちも重くなったが、どうにか返す言葉を見つけ出す。


「辛い思いをされてるんですね。私は飛田とびた優志まさしと申します。正直、私も運命が憎いと思うことがあります……。取り返しがつかないことになるのが、怖いと思う時もあります」

「運命は、私をどこまでも不幸にしようとしているんですよ。そんな運命は、誰にも変えられないんです」


 飛田はただただ、頷くだけだった。

 本心では「そんな事ありませんよ」と言いたかったが、グッとこらえる。


「佐藤さーん、佐藤豊さーん」


 看護師の呼ぶ声に気付いた佐藤は、ゆっくりと立ち上がった。足が少し震えている。


「……聞いてもらえて、少しスッキリしました」


 そう言いつつも、表情は暗いままだった。軽く頭を下げた佐藤は、診察室の方へ重い足取りで歩いて行く。


(運命が怖い、運命が憎い……。ですが私は、心配したってその時はその時なので、悔いなく生きたい……です)

「飛田優志さーん」


 佐藤の話を聞いて色々と考えていた時、飛田を呼ぶ看護師の声が待合室に響いた。



 診察室の扉を開けると、そこにいたのはやはり飛田が苦手な担当医——中田なかた幹夫みきおである。


「……こんにちは」

「新型ウイルス流行ってるねえ、基礎疾患のある飛田さんが今、新型ウイルスにかかると高い確率で重症化するさかい、なおのことちゃんも治療せえへんとなぁ」

「はい……」


 俯いて返事をした時、またしても——。


『そうだそうだ、お前の病気は治らないポン。新型ウイルスにかかって重症化して死ぬポン』


 脳内に響く謎の声。

 飛田はいっぺんに気分が悪くなり、眩暈と動悸に襲われた。

 そんな飛田に気付かぬ中田は、ひたすらパソコンと睨めっこしながら話し続ける。


「こういう時期はまた変なニセ医療の話が出てくるはずや。マスクは効果ないとか、ワクチンは有害やとかな。ちゃんと病気を治すのは、標準医療しかあり得ないんですわ。そのことを今日はしっかり覚えといてもらいたいですねぇ。さて、早よう手術の段取り決めて……」

『いやいや、もう遅いポン。お前が手術する決断をしなかったから、お前の病気はもう治らないポン。お前は40歳になるまでに死ぬポン』


 嫌な担当医と幻聴のせいで、飛田の心は崩壊寸前だ。

 冷や汗を拭い、歯を食いしばって苦しみに耐えた飛田は、ついに中田に向け不満をぶつけた。


「……何でパソコンばかり見て一方的に話ばかりするんですか! もう私は、他の病院に行きます! 失礼します!」

「あ、ちょっと!」


 飛田は鞄を背負い直し、そそくさと診察室を出て行ってしまった。


 受付でお金を払い薬を受け取ると、もうこの病院には二度と来ないことを決意し、病院を後にした。



(心配したってその時はその時だなんて、悔いなく生きたいだなんて……私は本当はそんなふうに全然思ってないんじゃないでしょうか……。佐藤さんが言っていた、“運命が自分を不幸にしようとしている”というのは、あながち間違いではないのでは……)


 帰り道のバスに揺られながら、飛田は考え続けていた。が、それを邪魔するかのように、謎の幻聴はなおも悪魔のように囁いてくる。


『お前は新型ウイルスにかかって重症化するポン』

(ああ、うるさいです! 私はいったい、どうすればいいんですか!)


 その日から飛田は、ご飯もろくに食べられず、ただベッドで寝込んで過ごすこととなってしまった。

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