5.インナー・チャイルド


優志まさしくんのベッド、3階のチップのベッドの隣に用意したからね。ゆっくりしてね」

「ありがとうございます……」


 ねずみの父親は、以前に飛田とびたが訪れた時と同じように、飛田のぶんのベッドを用意してくれていた。まるで泊まっていくことが当たり前であるかのように。

 

 1階のテーブルで、ねずみの父親と一緒にお茶を飲みながら、改めて家の中を眺めてみた。

 居心地がいいなと感じたのは、飛田だけではないようだ。個性豊かな衣装を身につけた35匹もの猫たちは、1階の床で気持ち良さそうに雑魚寝をしている。


「優志くんも、3日後の猫の国での祝賀会、参加するでしょ? その日まで泊まっていってもいいんだよ」


 ねずみの父親は幸せそうな笑みを浮かべながら言った。


「そ、それはさすがに……」

「ふふ、らしくないじゃないか優志くん。遠慮はいらないよ。せっかくまた会えたんだから。優志くんさえよければだけどね」


 そこまで言われると、断るのが申し訳なくなる。

 以前に一緒によく遊んだねずみの子供のチップとナナも、飛田と会えて嬉しそうにしていたし、何よりねずみの世界は飛田にとって、心からホッとする素敵な世界なのだ。

 

「じゃあ、せっかくなのでここで過ごさせていただきますね」

「うん、ごゆっくりね。じゃあ、寝ようか」

「はい。おやすみなさい」


 コナラの木をくり抜いて作られた、9匹のねずみたちの家。

 1階には居間や台所、大人たちの部屋があり、ねずみ1匹分が通れる大きさの木の扉で仕切られている。

 居間は3階まで吹き抜けになっていて、見上げると2階、3階のフロアが見える。

 2階、3階は居間の面積の半分ほどの、木の枝を敷き詰められた床になっていて、それぞれ木のはしごで繋がっている。


 木のはしごを上って2階に行くと、チップとナナが枕を投げ合ってはしゃいでいた。

 そばにいたお姉さんねずみが、落ちた枕を拾いながら飛田に声をかけた。


「挨拶が遅くなってごめんね、優志お兄さん。私の名前、覚えてる?」

「えっと……【モモ】ちゃん、ですよね。お料理上手の」

「うふ、覚えててくれて嬉しい」


 ニコッと笑い、枕を丁寧にベッドに乗せた。


「【ミライ】くんを寝かせるから、そろそろチップくんもナッちゃんも寝ようね」

「はーい!」

「はぁい!」


 兄妹は長女モモの言うことを素直に聞き、チップは3階へ向かい、ナナは2階のベッドでパジャマに着替え始める。

 末っ子のミライは、ナナの隣にあるベッドで眠たげに目を擦っている。


「そうでした……。モモちゃん、ナッちゃん、ミライくんのベッドが2階、そしてチップくんと、長男の【トーマス】くんのベッドが3階でしたね」

「そうそう。優志お兄さんのベッドも、前と同じ3階に出しておいたからね」

「ありがとうございます。ではおやすみなさい、モモちゃん」


 3階に上ると、長男トーマスのベッドと次男チップのベッドの間に、飛田のベッドが設置されていた。

 壁には、子供たちが描いた絵が貼られている。


「やあ、優志くん。猫さんいっぱいでびっくりしたでしょ?」


 ベッドに座りながら、トーマスが話しかけてきた。


「トーマスくん、久しぶりですね。ほんと、びっくりしましたよ……」

「あ、“トム”でいいよ。その方が呼びやすいでしょ? 優志くん、今度一緒に、美味しいもの食べに行こうよ」

「そ、そうでした。じゃあこれからもトムくんって呼びますね。トムくんは食べるのが好きでしたよね。いっぱい、食べに行きましょう」


 さっきまではしゃいでいたチップは、早くもすやすやと寝息を立てていた。

 飛田も、用意されていた寝間着に着替え、ベッドに入った。ふわりと、柔らかな布団が飛田の全身を包み込む。子守唄のように、虫たちのが真っ暗な空間に響く。

 窓から、満月の光が射し込んでいた。


 ベッドに横になって、数分後。


「……優志くん」


 はしごを上ってきたねずみの母親に、声をかけられた。


「あ……ねずみのお母さん。しばらくお世話になりますね」

「ふふ、こっちこそよろしくね」


 ねずみの母親は近づいてしゃがみ込むと、そっと頭を撫でてくれた。


「優志くんにも子守唄歌ってあげるから、ぐっすり眠ってね」


 そんな、子供じゃあるまいしと一瞬思ったが——その直後、飛田の中で抑え込まれていた子供心インナーチャイルドが、突然暴れ出した。


「……ねずみのお母さん……」

「ふふ、どうしたの優志くん?」

「怖かったです……辛かったです……うう……」


 現実社会の混沌。世間からのプレッシャー。うまくいかない人間関係。先の見えない不安。いつ再発するか分からない脇腹の痛み——。

 大人になってからは誰も甘えられる相手がおらず、緊張とストレスに満ちた現実生活と戦い続けていた飛田。

 そんな生活から解放された飛田の目の前には、優しいねずみの母親の微笑む顔。


 抑え込まれ、見て見ぬふりをされていた飛田とびた優志まさしの“本心”が、涙と共に、止めどなく溢れ出してきたのだ。

 

「うう……辛かった、苦しかった……しんどかった……うあああ……!」

「よしよし。もう大丈夫だから。優志くんはいい子いい子、ふふふ」


 幼子のように泣き声を上げ、ねずみの母親にしがみついた。


 小さい子供の頃、いじめられたり怪我をしたり怖い絵本を読んだりして、親や祖父母に泣きついた時と、同じような心情だ。

 あの時だって、まるで底のない地獄に引き込まれるような怖さ、そして辛さ、心の痛みがあった。

 その怖い世界から救ってくれるのは——心の故郷ふるさとともいえるような、自分よりも大きな大きな存在。


 ねずみの母親は、今は、飛田の中に抑え込まれた子供の飛田優志インナーチャイルドの、母親代わりだ。飛田はねずみの母親にしがみつき涙を溢れさせるが、ねずみの母親は「うん、うん。大丈夫よ」と言いながら、頭を撫で続けてくれている。

 少しずつ、少しずつ、子供心インナーチャイルドは癒され、落ち着いてくる。

 泣き止んだ頃合いで、ねずみの母親は、いつもねずみのきょうだいを寝かしつける時に歌っている子守唄を、小声で歌い始めた。


「つきが みている もりのなか♪よいこは おやすみ いいゆめを♪……」


 涙と共に苦しみが浄化され——飛田はそっと、眠りについたのだった。

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