第8話 みーちゃん、被害妄想が爆発する

 残業を拒否した翌日から職場の空気は一変した。なごやかなムードは消え、どこか冷え冷えとしたものが漂っていた。社員の妻である私に対して誰も話しかけてこない。失礼すぎ。私のほうから話しかければ返事はしてくれるけど、笑顔もなく、気遣いの言葉もない。歯医者に行ったのを責められているのだろう。あんまりだと思った。どうして私が歯医者に行ってはいけないの。理不尽だ。



 今日はタオルの包装をすることになった。私はまだタオルは未経験なので、黙って椅子に座って考えた。どうしたらいんだろう。2時間ほど悩んだが何もわからなかったので、山田さんの作業台の前に立った。いつもなら山田さんは「どうしたの」と聞いてくれるのだが、何も言わない。困ってしまって、山田さんのまわりをうろうろと歩いてみたりもしたが、誰も何も言ってくれなかった。私の夫は社員なのにこんな冷たい仕打ちってある?

 そうこうするうちに昼休みになったので、昼食を食べるために自席に戻った。作業台に頬杖ついてサンドイッチを食べていると、鴻上さんが「ちょっと! 作業台の上でサンドイッチなんか食べないでよ」と眉間に皺を寄せて注意してきた。

 私はまた黙り込んでしまう。みんな自分の席で食事をしているのに、どうして自分だけ責められるのだろうか。

「ね、よく見てみて。皆は作業台に食べかすが落ちないよう、膝の上に弁当やパンを置いて食べているよね。台の上では食べないんだよ」

 松木さんがそう話しかけてきたが、ショックで耳に入らなかった。自分と他人の違いがわからない。同じようにしているのに自分だけが責められる。

 食欲をなくし、私はサンドイッチをかばんにしまった。私は歯医者に行ってもダメ、昼食を食べてもダメ。何をしても怒られ、否定され、嫌われる。涙が浮かんできた。私ばっかり。きっとみんな私が社員の妻になったから嫉妬してるんだ。

「私の夫は社員なのに。みんなもうちょっとわきまえるべきじゃないんですか」

 大きな声でそう言ってやったが、誰も返事をしなかった。


 午後になり、まだ今日は1個も包装していない私は、このままじゃいけないと思い、再び山田さんのところへ行った。そして、山田さんの顔を覗き込み、相手が何か言うのを待った。山田さんは顔を背けたので、回り込んで、また顔を覗き込んだ。

「いいかげんにしなさい!」

 いきなり山田さんが声を荒げた。

「話しかけてもらうのを待つんじゃなくて、自分から話しかけなさいよ。こっちからどうしたの、何が分からないのっていちいち聞いてあげないといけないなんておかしいでしょう」

 急に声を荒げられて、私はフリーズしてしまった。仕事の仕方がわからないのだから教えてもらわないとできないのに、どうして山田さんは私を責めるのだろう。そんなに私が社員と結婚したのが悔しいのか。

「きょうは一つも包装してないんじゃないの」

 山田さんは私をにらんでいる。いくら私に嫉妬しているとはいえ、この人は感情的すぎて論理的な話が通じない。きっと馬鹿なんだろうけどつき合い切れない。

「あなた、仕事やる気ないの?」

 私は無理してにっこり笑ってやった。嫌味に負けるもんか!

「ないことはないです」

 パートたちがざわついた。「ないことはないって……」「よく言えるよね」「やる気ないなら辞めたらいいのに」

「違う違う!」

 話が思わぬ方向に進んでいることに気づき、私は慌てた。

「やる気ないんじゃないです。ないことはないんです!」

「それってつまり、あまりないってことだよね」

「違います! どうして? 私、やる気がないことはないってちゃんと言っているのに……。どうして分かってくれないんですか。私が結婚したのがそんなに悔しいんですか……?」

 変な曲解をしてまで私を悪く言うだなんて。だんだん涙声になってきた。しらけたムードの中、私は涙がとまらなくなってしまった。

「……仕事しよう」

 山田さんの声を受けて、パートたちは作業に戻った。ただ、松木さんだけは作業に戻らず、また私に声をかけてきた。

「仕事をやる気があるって、そう言いたかったの?」

「え……」

 一瞬わけがわからなかった。何を言ってるの、この人。でもすぐに理解して、頷いた。

「そう、そうです、私はやる気がある、あるんです。ないことはないって、そういう意味です、そう言いたかったんです!」

「じゃあ、そう言わないと、みんなに伝わらないよ。何度も言うようだけど、言い方には気をつけたほうがいいよ」

 そう言われて、唇をかんだ。悔しくて情けなくて、再び涙がこぼれた。みんなが察しが悪いのは私のせいじゃないのに。私が言いたいことを曲解して、意地悪に解釈するみんなが悪いのに。

「なんでそんなこと言うんですか。みんながちゃんと私の言いたいことを理解すればよくないですか。正しく言葉を理解できないのを私のせいにしないでください」

 私は松木さんを睨んだ。松木さんはとても意地悪な人だ。思い返してみれば、いつも松木さんは自分に嫌なことを言ってくる。松木さんはこの職場で一番意地悪だ。

「う、うーん……。前から思ってたんだけどね」と、松木さんは妙に眉毛を下げて口を横に広げるみたいにして開いた。まるでできの悪い子に無駄な説得をする教師みたいな顔だ。気分悪い。

「あなたって時々、相手が言ったことを否定するような形で返事するよね。たとえばコーヒー飲まない? って聞かれたら、飲むって返事するんじゃなくて、飲まないことはありませんっていうふうに。それが誤解のもとなんじゃないのかな」

 言われた意味がとっさに理解できず黙ってしまった。何それ。コーヒーがみんなの嫌がらせと何の関係があるっていうの。

 松木さんは「なんかごめん、余計なことだったかな。あ、でもね、あなたが自分から話しかけるのが苦手ってのは、きっと今日のでみんなも理解したと思うよ」と言って、自席に戻っていった。松木さんが立ち去ったあと、言われたことを何度か考えてみたが、結局何のことだかよくわからなかった。

「どうせ嫌味か何かだろう。気にしたって無駄だから無視しよう」と考えた。だってあの人はいつも私が嫌な気持ちになることを言うから。「あなたのためだから」って言って、私に意地悪する人だ。


 <つづく>

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